奇想天外な作品の数々が現代でも人気な歌川国芳。
多岐にわたる奇抜なテーマと迫力ある画面構成は、江戸庶民からも人気を得ており、多くの作品が現代に受け継がれています。
国芳は1748年に江戸日本橋で生まれました。幼いころから絵を描き、15歳でその腕を買われて浮世絵師・歌川豊国に入門します。3年後には国芳の名でデビューを果たしますが、人気はそれほど高くなく、兄弟子の歌川国直のもとに居候する生活でした。
1827年、代表作『水滸伝』シリーズが発表されます。これが大ヒットとなり、通称「武者絵の国芳」と呼ばれるようになりました。
天保の改革が行われ、幕府による人情本の取り締まりが行われるようになっても国芳は屈せず、巧な風刺画で庶民を楽しませ、改革終了後は『宮本武蔵と巨鯨』を発表。その迫力ある作品で多くの人々魅了しました。
しかし、60歳ころから体調を崩し始め、1861年、65歳で亡くなりました。
多くの弟子を育てており、最後の浮世絵師と呼ばれる月岡芳年や、明治になっても活躍した河鍋暁斎も国芳の門弟でした。
国芳は、同時代に活躍した葛飾北斎や歌川広重と並び、日本の芸術文化をけん引した人物といえます。
狩野派絵師でありながら多くの浮世絵も描いた絵師・河鍋暁斎。幕末から明治へと向かう動乱の時代の中で、実力を発揮し、高い評価を得た人気絵師です。
暁斎は1831年に下総(現在の茨城)で生まれました。翌年は家族で江戸に移り、以後江戸東京を活躍の場とし生涯制作を行いました。
1837年、7歳の頃に浮世絵師・歌川国芳に入門。3年後には狩野派絵師・前村洞和に入門しました。既に高い技能を持っていたため修行はわずか9年で修了し、「洞郁陳之」の号を授かります。しかしながら時代は幕末、狩野派絵師の需要は激減し多くの画家たちが困窮しました。浮世絵や戯画の技能を持っていた暁斎は、庶民向けの風刺画などを手掛けたことで、激動の時代を乗り越えます。ですがその政治風刺が原因で、1870年には新政府に捕縛されました。運よく翌年解放され、以前から名乗っていた「狂斎」の号を「暁斎」に変えています。
「暁斎」を名乗るようになってからも変わらず様々な絵を描き続け、1881年の内国勧業博覧会では妙技二等賞牌を受賞しています。この年には、近代日本建築界に多大な影響を与えた建築家 ジョサイア・コンドルが弟子となりました。1887年の東京美術学校開校に際しては、教授としての着任を依頼されますが、体調が優れずに断念。1889年、亡くなります。
生涯にわたり肉筆、版画を問わず多くの絵を描き、現在でもその作品は高い人気を誇ります。
橋本明治は、島根県出身の日本画家です。
明治37年に生まれ、幼少期に祖父の影響を大きく受けて、絵画の道を進みます。
中学校を卒業した翌年の4月に上京。東京美術学校日本画科に入学しました。同期には、明治と共に日本画家の大御所となる東山魁夷や加藤栄三がいました。
在学中に帝展に初入選すると、翌年も連続入選します。そして、東京美術学校日本画科を首席で卒業します。同期の顔ぶれから見ても、大変に秀でた才覚を現していたことがうかがえます。
その後は新しく開催された新文展で特選。そして、翌年も特選に選ばれます。その才能から、博物館より模写の依頼を受け、15年から始まった法隆寺壁画模写では主任を務めます。
日展へ出展する頃には得意とした美人画・風景画だけでなく、女優・司葉子や力士・初代貴の花、松下幸之助といった著名人をモデルにした作品を多数出品して話題となりました。
晩年には、皇居新宮殿正殿の障壁画・出雲大社庁舎壁画共に「龍」を制作します。この作品は明治の画家としての集大成ともいえる大作です。
昭和62年、自作の寄与をしていた郷里の島根県立博物館に「橋本明治記念室」が設立されております。
棟方志功は日本を代表する版画家です。
「板画」と称した志功の版画は、その独特な作風から現在でも高い人気を誇っています。また「倭画」と称した肉筆画も、同様に人気の高いものとなっています。
志功は1903年、青森の刀鍛冶職人の家に生まれました。
18歳の頃、ゴッホの『ひまわり』に影響され画家になる事を決意し、21歳で上京します。様々な展覧会で作品を発表しますが、当初は落選ばかりであったようです。
1928年、第9回帝展に出品した油絵『雑園』がついに初入選となります。同じころ、版画家・川上澄雄の『初夏の風』に感動し、志功も版画制作を開始します。第二次大戦後は国外の展覧会でも作品が入選するようになり、世界各地で展覧会を開くなど、国際的にその名を知られる芸術家となりました。1970年には文化勲章を受章しています。
1975年に死去しますが、同年、故郷の青森に「棟方志功記念館」が開館しました。
加山又造は、京都出身の日本画家です。
西陣の衣装図案師を父に持ち、祖父は京都四條派、円山派に学んだ絵師の下で生まれ育ちました。父は弟子を抱えて工房を営んでいたこともあり、幼いころから父や弟子の方たちの仕事を見ていたことと仕事の為の図案集や画集を眺めたり、絵を真似て描いていくようになっていきました。
13歳で京都市立美術学校に入学し、17歳で東京美術学校(東京藝術大学の前身)に進学、卒業後は山本岳人に師事し創造美術に作品を応募し、一度目は落選するものの、研究会に参加の上で二度目にして入選を果たし、その後は順調に画業をしていくようになりました。28歳(1955)には初めて個展を開催、31歳(1958)には第二回グッゲンハイム賞国際美術展に出品し、それ以後は海外にて日本画の展覧会が開催する場合に招待作家として出品を重ねることにもなっていきました。国内でも意欲的な活動を続け、横山操、石本正と共に轟会を結成し、日本画の革新を目指して精力的な活動をしていきました。また、多摩芸術大学や東京芸術大学などで後進の育成にも尽力し、学生と過ごす中で新たな発見もしたとのことです。2003年には文化勲章を受章しましたが、2004年にこの世を去りました。
常に意欲的で斬新な創作活動を続け、大胆に工夫されたデザインと豪華な色彩による花鳥や山水や裸婦の単純な構成は「現代の琳派」と称されており、絵画のみにとどまらず、陶器の絵付、壁画、天井画、各種の装飾デザインといったように創作活動は多岐にわたっています。伝統的な日本画の美しさを現代的な感覚で表現し、現代の日本画において影響力があった作家であるといえるでしょう。
東山魁夷は、1908年(明治41年)神奈川県横浜市に生まれました。
本名は新吉といいます。
東京美術学校(現・東京藝術大学)を卒業後、ドイツに留学しました。
ドイツ留学の後に太平洋戦争への召集に応じて軍隊にはいります。
戦後の苦難のなか風景の美しさに開眼し、第3回日展で『残照』が特選に選ばれ、政府買い上げとなりました。
1950年からは日展審査員となり、代表作である『道』を発表します。
第11回日展出品作『光昏(こうこん)』で日本芸術院賞受賞。
65年に日本芸術院会員、日展理事となり、69年に文化勲章を受章しました。
74年には日展理事長に就任。
99年に老衰で死去しますが、従三位、勲一等瑞宝章が贈られました。
2018年には東京で10年ぶり、京都では30年ぶりとなる大回顧展『生誕110年 東山魁夷展』が国立新美術館と京都国立近代美術館で開催。
東山魁夷の作品は主に風景画ですが、どれもどこかで見たことがある何気ない風景や自然を題材にした作品を多く手掛けています。
その作品は、不思議と幻想的で現実世界とは少しかけ離れた風景が感じられますね。
彼の独特な感性から描き出された風景画は、現在も多くのファンに評価されて人気を集めています。