歌川芳員は、幕末から明治初期にかけて活躍した歌川派の浮世絵師です。名門・歌川国芳の弟子であり、一寿斎や一川、一川斎などの号を用いました。
作画期は嘉永頃から明治初期に及びます。当初はダイナミックな合戦絵や武者絵、花鳥画を手掛けました。芳員が最もその才を発揮したのは横浜開港以降です。異国の人々の生活風俗や、蒸気船、蒸気車といった近代的な風景を鮮麗に捉え、数多くの「横浜絵」を手掛けました。激動する時代の転換期における未知の異文化への好奇心をいち早く描き出し、横浜絵の第一人者として高く評価されています。
また、「東海道五十三次内 大磯」に登場する「虎子石」のようなユーモラスで独創的なキャラクターを描いたことでも愛されています。
歌川貞秀は、江戸時代後期から明治時代初期にかけて活躍した浮世絵師です。
歌川は下総国布佐(千葉県我孫子市)に生まれ、本名は橋本兼次郎といいます。歌川国貞(三代豊国)に学んだとされ、歌川派の絵師として文政期頃より挿絵などを手がけ、天保期には美人画・役者絵・武者絵・風景画など幅広い分野で制作し、幕末には横浜開港に伴う異国風俗や風景を描いた『横浜絵』でも知られます。
彼は、鳥瞰(俯瞰)構図を巧みに用いた名所絵や一覧図を得意とし、都市や名所、港湾の様子を広範囲にわたって精緻に描き込み、画面全体を一望できる構成を特徴としています。こうした視点は、実景を俯瞰的に把握しつつ情報性を高める表現として評価されており、その作風から「鳥の目をもつ絵師」とも称されています。
歌川貞秀は幕末から明治初期の社会変化を背景に、風景・風俗・異文化を俯瞰的視点で記録した、資料性の高い浮世絵師ともいえます。
小林永濯は、幕末から明治時代に活躍した日本画家・浮世絵師です。
小林は、日本橋の魚問屋に生まれ、幼少期より狩野派の画法を学びました。その後、彦根藩井伊家のお抱え絵師への登用が持ち上がるなど、若くしてその並外れた才能を認められ、明治維新後は浮世絵、新聞挿絵、歴史画など幅広い分野で活動しました。また、月岡芳年や河鍋暁斎と同時代に活躍した、明治期の歴史画・挿絵分野を担った画家の一人として知られています。
彼の作品は、狩野派の伝統的な技法を基盤に、精緻な描写と安定した人物表現を特徴としています。人物像を大きく動かし、緊張感のある瞬間を切り取る構図により、戦闘場面や儀式的場面を視覚的に強い印象で表現しています。
小林永濯は明治期において、狩野派の基礎的な描写力を背景に、日本神話・歴史人物を劇的構図で描いた作家ともいえます。
ポール・ジャクレーは、フランス出身で日本で活躍した版画家です。
1896年にフランス・パリに生まれ、3歳で家族とともに来日しました。
東京で育ち、日本語や日本の風俗・古典文化に慣れ親しみながら成長しました。
幼いころから絵画に関心を持ち、喜多川歌麿の浮世絵の模写を行っていました。また、黒田清輝や久米桂一郎から油彩を学び、その後は池田輝方や蕉園夫妻から日本画を学びました。
10歳の時の模写には、自身の名前を漢字で「若礼」と書きサインを残しています。また、義太夫好きが高じて「若礼」の名で高座に上がったそうです。
その後、フランス大使館で翻訳の仕事に就いていましたが、1930年頃に辞職し本格的に画業に取り組むようになりました。
1929年に南洋諸島へ訪問し、それが大きな転機になります。そこでの意欲的な創作活動で、100枚以上の水彩画やデッサンを制作しました。
その後1932年まで、毎年日本の委任統治領だった南洋の島々に長期滞在し、数多くの水彩画を制作しました。それが「新版画」の制作につながります。
「新版画」は絵師・彫師・摺師の協働作業で行われ昭和前期に盛んでした。
ジャクレーは、美術史学者である藤懸静也のすすめで版画制作をはじめ、1933年に「若礼版画研究所」を設立しました。
そして翌年1934年から、彫師・摺師と協働し、南洋やアジアで暮らす人々を主題とした人物画を中心に木版画の出版を開始します。
ジャグレーの作品は、版画でありながら鮮やかな色彩が特徴的で、その絵からはその土地の風土や空気感が伝わってきて、人々の暮らしを想起させます。
使用する絵具や、摺りの仕上がりにも細心のこだわりがあり、雲母摺や多色摺などの高度な技法を積極的に取り入れたり、自然な仕上がりを求めて金粉や銀粉、真珠や螺鈿の貝の粉を用いるなど、高度な摺り技法によって独自の質感が生み出されています。こだわりでは通常の10倍程である200枚前後の版木を使用することもあったそうです。
多色摺による精緻な工程を経て制作され、その完成度の高さと異国情緒あふれる表現により、国内外で高い評価を受けています。
井上安治は、明治時代前期に活躍した夭折の浮世絵師・版画家です。
1864年、東京・浅草並木町に生まれました。本名は安次郎といい、号として安治・安二・安二郎・安はる・探景などを用いました。
幼少期より絵を好み、はじめに月岡芳年に師事しました。
その後1878年から1879年の15歳頃に「光線画」で人気を博していた小林清親の門人となりました。1880年には、わずか17歳ながら『浅草橋夕景』などでデビューしました。
「光線画」とは、明治初期の東京の変わりゆく都市風景を、浮世絵の手法で描いた名所絵であり、小林清親が中心となって発展させた表現です。
西洋画の影響を思わせるグラデーションを効かせた淡い色彩を用いたり、何度も版を重ねて夜闇の中に浮かび上がる光や影を繊細に表現するなど、従来の浮世絵とは異なる新しい作風で人気を呼びました。
安治の代表的な作品として知られる『東京真画名所図解』は、清親が光線画から手を引いた1881年頃から、安治の亡くなる1889年にかけて出版されました。横四ツ切判というハガキほどの小さなサイズに明治期の東京の風景が写実的に描かれています。
清親の光線画を受け継ぎ、縮小版として制作するという版元の意向や、100点を超える東京風景を短期間で仕上げる必要があったことから、構図や主題に清親との共通点がみられます。
清親がぼかしを用いた情緒的な表現を特徴とするのに対し、安治は西洋絵画の影響による線描を基調とした写実的な表現が特徴です。
夜景においても、闇に浮かぶ風景や人物、植物の影が鮮明に見られます。
清親の作品に比べて人物や描線がいくらか省略されたことにより引き締まったように見られます。
刊行当時は明治になり全国から上京してきた人々から、文明開化の東京を伝えるものとして人気を集めました。
1884年に版元・松木平吉より「探景」の号を受け、その後は風景画に加え、開化絵や相撲絵、時事画、歴史画、教育画、風俗画なども手がけました。翌1885年には同版元から教訓絵連作『教導立志基』が刊行され、師・小林清親を含む6名の絵師が参加し、安治もそのうち数点を担当しています。
1889年、26歳という若さで生涯を終えましたが、師の影響を受けつつも、繊細な線描による写実的な表現で文明開化期の東京を描き、独自の作風を示しました。
歌川 貞房は江戸時代の浮世絵師です。五亀亭(ごきてい)、五楓亭(ごふうてい)、桶蝶楼(とうちょうろう)などの号を用いました。門人には歌川房種がいます。
生没年や生涯については不明な点が多いですが、初代 歌川国貞(三代目 歌川豊国)の門人であり、江戸・京橋から大坂へ移住し、文政(1818年~1831年)から嘉永(1848年~1855年)頃にかけて活動したとされています。
国貞の画風を基盤に自身の作風を確立し、美人画を中心に、役者絵や合巻の挿絵なども手掛けました。着物や細やかな装飾を丁寧に描き、当時の女性を華やかに表現しています。また、人物を中心とした構図で日常の風俗を軽快に描いており、作品に登場する人物の表情の豊かさも魅力の一つです。
代表作には『東都両国夕涼之図』『忠臣蔵 見立人形』『忠臣蔵』などがあります。