今回は表千家八代 件翁宗左 卒琢斎についてご紹介致します。
卒琢斎は表千家七代 天然宗左 如心斎の長男として生まれます。
功績としては、天明の大火から家元を復興させたことや、その後に利休二百年忌の茶事を執り行ったことが挙げられます。
卒琢斎は8歳という幼い齢で父如心斎と死別することになります。しかし、後見を受けた川上不白らの援助や、叔父の裏千家八代 又玄斎に師事することで、茶人として成長していきます。
14歳の頃に表千家を継承し、歴代と同じく、紀州徳川家の茶頭を勤めることになります。同年、卒琢斎は千宗旦百年忌の茶事を見事に成功させました。
彼は50年以上も代継ぎをした、歴代でも特に長い宗匠にあたります。
1788年、京都を襲った大規模な火災である天明の大火が起こります。
表千家の施設も天明の大火によって焼失したと言われており、伝来道具を除く、茶室や道具類の多くが被害に遭いました。
また、卒琢斎自身の資料もその際に失われており、火災が起こる前のおよそ30年間の活動履歴は残っておりません。
しかし卒琢斎は、父如心斎が確立させた家元制度のおかげもあり、多くの人から協力を得て火災から一年での復興を果たしました。
復興の後、すぐさま利休二百年忌の茶事を盛大に執り行い、災害の余波をものともせず精力的に活動していきます。
また他にも、宗旦百五十年忌や如心斎五十年忌を行うなど、長い間家元ととして活動してきたからこそ大きな催しに多く携わることとなりました。
60歳で家督を婿養子である九代 了々斎へと譲り、自身は隠居します。
その際、宗旦という三代と同じ名を名乗ります。この時から、表千家では隠居後に宗旦と名乗ることが慣例となったそうです。
卒琢斎の好み物としては、啐啄斎手造の赤樂の茶碗「慈童」が残されています。他には、溜真塗丸卓や丸香台、利休や宗旦がかつて好んだ造りの茶室が挙げられます。
山本一如は1949年、大阪府に生まれました。
初代 中村翠嵐に師事し、独立後は京都清水焼展をはじめとした展覧会で多くの賞を受賞しています。総本山仁和寺顧問、杉本勇乗氏より“一如”と命名されました。
素焼き後、一珍盛りと呼ばれる技法でケーキにデコレーションするように立体的に描線を盛り上げていき、そこに色ガラスと同様の成分を持つ鮮やかな釉薬を刷り込んで焼き上げることにより、独特の鮮やかな発色とガラス質の光沢による繊細な表現が可能となります。
氏はこの交趾一珍盛りに生涯をかけて取り組み、現在も「良い作品を残したい」という一心で作陶を続けています。
ポピュラーな黄交趾のほか、浅葱色や桜の花びらのような淡桃色など柔らかい色合いの作品も多く手掛けており、建水や茶碗等の茶道具のほか、マグカップなど伝統的な文様とモダンなデザインを掛け合わせた作品も制作しています。
表千家六代 原叟宗左 覚々斎についてご紹介いたします。
覚々斎は久田家三代家元 久田宗全の実子でありながら、表千家五代家元 良休宗左 随流斎の養子となり、18歳という若さで表千家を継いだ人物です。
実父の久田宗全は随流斎と兄弟の関係にあり、久田家が茶家として本格的に活動し始めた代の人物でもあります。彼もまた目覚ましい功績を残した御人です。
覚々斎は襲名前、宗員と名乗っておりました。随流斎が後嗣に恵まれなかったため、12歳の頃に養子として迎えられます。
しかし、そのおよそ二年後に随流斎は亡くなってしまいます。
その後、大徳寺の大心義統から禅を学び、叔父であり千宗旦の弟子であった藤村庸軒から薫陶を受けます。
18歳で正式に表千家を継承すると、紀州徳川家に仕官し、五代徳川頼方の茶頭を務めます。その頼方こそ「享保の改革」で良く知られる、江戸幕府 八代将軍 徳川吉宗になります。
享保8年(1723年)には吉宗より唐津焼の茶碗を拝領し、「桑原茶碗」と呼ばれるそれは、覚々斎が残した茶道具の中でも特に有名です。
覚々斎は吉宗に仕えた後、紀州徳川家六代藩主の徳川宗直に仕えます。
当時は参勤交代の制度があり、お供として覚々斎も江戸へと赴きました。
その時、吉宗の意を受けた側近の桑原権左衛門によって、覚々斎のもとに茶碗が届けられました。その桑原権左衛門にちなんで「桑原茶碗」と名付けられたそうです。
桑原茶碗は、茶碗の腰と高台が一体化している風変わりな造りになっています。それはまさしく、茶の湯に対する「自由」な姿勢を貫き続けた覚々斎本人を表しているかのようです。
その自由な考え方も当初は、批判の声が上がっていました。しかし、茶の湯を楽しむ心を重視する在り方は門下生を始め、次第に多くの人から賛同を得ることとなります。
また、覚々斎自身も手作りの茶碗を多く残しており、「流芳五十」と呼ばれる50口の赤茶碗と黒茶碗が存在します。中には樂家に焼かせた作品もあり、現在それらの作品は「樂美術館」や「表千家北山会館」にて拝見する事ができます。
覚々斎には、如心斎(表千家7代)、竺叟宗乾(裏千家7代)、一燈宗室(裏千家8代)といった、後に千家の家元となる子供が多く存在します。
彼らも多かれ少なかれ、覚々斎の影響を受けて育ったと言えるでしょう。
表千家五代 良休宗左 随流斎についてご紹介致します。
随流斎は表千家四代家元 江岑宗左 蓬源斎の養子にして、表千家五代家元となった人物です。
『随流斎延紙ノ書』という自筆の茶書を残したことで有名ですが、彼自身についての記録は少なく、表千家の中でも謎が多い人物だとされています。
隋流斎は久田家二代 久田宗利と千宗旦の娘・くれの間に生まれます。まだ幼い時に、江岑宗左の養子として迎えられました。
江岑は後嗣の男子に恵まれなかったため、後継者として妹の甥っ子に白羽の矢が立ちました。
初めは宗巴という名でしたが、後に江岑と同じように表千家が代々襲名する「宗左」を名乗ります。
しかし、随流斎は人偏を使う「宗佐」の方を好んで用いたため、「人偏宗佐」という異名で呼ばれることがあります。
義父の江岑は利休以来千家に受け継がれてきた茶の教えを筆録し、随流斎のためにも『千利休由緒書』や『江岑夏書』といった書物として残しました。
そこで随流斎自身もまた、叔父であり裏千家4代家元でもある仙叟宗室など、周りの知り合いから聞いた茶の湯に関する話を書きとめ、『随流斎延紙ノ書』という覚書を残しています。
過去の茶人にまつわる話や茶道具の話など、その詳細は表千家のホームページ(表千家 茶の湯 こころと美)にも一部取り上げられています。
他にも、『随流斎寛文八年本』や『随流斎寛文十年本』という書が残されており、そこには千少庵や千道安に関する伝承がまとめられています。
その二人に関しても、残されている資料は少なく、大変貴重な記録だと言えます。
このように随流斎は、自らの足跡だけを残すのではなく、茶の湯界全体の歴史を後世へと残すことに尽力しました。その功績からは、どこか献身的な性格が窺えます。
随流斎は奇しくも、江岑と同じく後嗣の男子に恵まれなかったため、久田家三代 久田宗全の当時12歳だった長男(表千家六代 覚々斎)を養子にとります。
しかしその二年後、42歳という若さでこの世を去ってしまいました。
随流斎の好み物として伝わっているものは少なく、真塗の手桶水指や竹尺八花入の他、黒茶碗や赤茶碗の物が現在も残っております。
随流斎の残した箱書きの作品も少なくはなく、高く評価が付く場合がございます。
村田珠光は、室町時代の茶人です。
茶道における「わび茶」の先駆者として知られています。彼の茶道は、当時の華やかな茶会のスタイルとは異なり、質素で静かな美を追求し、後の茶道に大きな影響を与えました。
珠光は初め、浄土宗の称名寺に入寺しましたが、出家を好まず、京都に移り住んで能阿弥に師事しました。能阿弥のもとで、茶の湯や和漢連句、能、立花、唐物の鑑定など、当時の文化を学び、これらの経験が珠光の茶道に大きな影響を与えました。また、臨済宗の僧・一休宗純とも交流し、禅の教えを受けることで、茶道に禅的な精神性が根付くこととなります。
珠光の時代には、豪華な舶来品を用いた茶会が一般的でしたが、彼はこれに対抗する形で、「侘び茶」という新しい茶の湯の精神を確立しました。珠光が提唱した「侘び茶」は、華やかさを排除し、シンプルで素朴な美を重んじるもので、これが後の茶道の基本となります。珠光の死後、この思想は弟子たちに受け継がれ、やがて現代の茶道へとつながっていきました。
珠光の茶道における理念は、彼の言葉に表れています。例えば、「和漢のさかいをまぎらかすこと肝要」と述べ、唐物に偏らず、日本の焼物の素朴な美にも価値を見出すことを提案しました。珠光が残した茶道具は「珠光名物」と呼ばれ、その一部は後の茶人、千利休にも使用されたと伝えられています。また、「月も雲間のなきは嫌にて候」という言葉からは、完璧な美よりも「不足の美」に魅力を感じる珠光の美意識が窺えます。彼は茶室も四畳半という狭い空間に整え、装飾を省き、自然の美と調和を追求しました。
珠光の茶道には「心」と「精神」の重要性も色濃く反映されています。禅からの影響を受けた珠光は、物の不足を心の豊かさで補うことを目指し、茶の湯を精神修行の場として捉えました。「慢心や執着が茶道の妨げとなる」と説き、上達した者も常に初心を忘れず、他者に教えを請うことの重要性を強調しました。また、「心の師とはなれ、心を師とせざれ」という言葉には、心をコントロールし、変わりやすい感情に振り回されないようにするという教えが込められています。
珠光に影響を与えた人物として、まず能阿弥が挙げられます。能阿弥との出会いにより、珠光は当時の文化や芸術を学び、審美眼を養いました。特に、和漢連句からは「和と漢の境を超える」という考え方を得て、異なる文化の融合を試みました。
さらに、禅僧・一休宗純からは、無駄を排し、物事の本質を追い求める心を学び、これが珠光の茶道の精神的基盤となりました。
珠光自身が「侘び茶」を完全に創り上げたわけではありませんが、彼はその道を示し、後の茶道の発展に重要な役割を果たしました。珠光の理念は富裕層に支持され、弟子たちがその教えをさらに研鑽し続けた結果、茶の湯文化は完成へと向かい、今日に至るまで大きな影響を与え続けています。
裏千家五代家元 常叟宗室 不休斎 についてご紹介致します。
裏千家四代・仙叟宗室の長男であり、六代・泰叟宗室 六閑斎の父に当たります。
不休斎は、その短い生涯と特有の茶道具が注目される人物です。
母を早くに亡くし、父・仙叟宗室とともに京で茶道を学びました。25歳で宗匠を継ぎますが、体が弱く、加賀藩内の老錬な茶人たちとの関係に苦しみます。そのため、松山藩の藩主・前田綱紀に推挙されて松山に移住し、新たな環境で充実した日々を送りました。しかし、享年32歳という若さで急逝し、宗匠としての活動はわずか7年に過ぎませんでした。
常叟宗室は宗匠として「宗室」の名を名乗りますが、宗匠として活動を始める前には法名でこの名を名乗り、後の代継ぎからは「宗室」の名が襲名されることになりました。
不休斎が遺した茶道具は少ないものの、その美意識が色濃く反映されたものが多いです。
中でも「甲赤茶碗」が特に有名です。この茶碗はシンプルな形状ながら、鮮やかな朱色が施されており、簡素でありながら華やかさで力強い印象を与えます。
これらの茶道具は、元禄時代の成熟した町人文化を反映するものとして捉えられるとともに、彼の環境の変化による心持ちを反映しているとも考えられます。
不休斎の書付がある作品、また茶杓や茶碗などの不休斎本人が手掛けた作品は、その名高さや時代性から高い人気を持ちます。