竹田 益州は昭和を代表する臨済宗の僧侶です。法諱は宗進、道号は益川、室号は金剛窟です。
1896年大分で生まれ、尋常小学校3年の時近くの施恩寺という禅寺に5、6日滞在したことが縁となり、1906年に滋賀県大津市堅田の臨濟宗大徳寺派祥瑞寺に入寺。翌1907年11歳で大友宗忠について得度を受けました。
1911年に京都紫野連合般若林に入学し、梶浦逸外、林恵鏡らと共に4年間学び、1918年より滋賀県堅田の祥瑞寺住職に就任。その後禅門高等学院教授、大徳寺山内塔頭の臨済宗大徳寺派大仙院住職、大徳寺執事長などを歴任します。
そして1954年に建仁寺住職、及び建仁寺派管長に就任。1989年まで臨済宗建仁寺派第八代管長を務めました。
1983年には建仁寺方丈で米寿祝賀会が開催され、竹田益州画帖「落草餘事」が記念出版されました。茶道の深い知識や見識を持っていた益州は多くの自筆書や自作茶杓を残し、茶陶器の箱書も記しています。
1989年6月20日、京都の病院で遷化しました。
田中阿喜良(本名:中島阿喜良)は1918年8月20日8月20日に大阪府で生まれた洋画家です。
彼が生まれた時代は第一次世界大戦の終わり。
この後に世界恐慌が発生し、第二次世界大戦へと向かっていく、軍国主義、全体主義という思想が強まっていく時代でした。
1937年に大阪府立高津中学校を卒業(19歳)し、38年に姫路高等学校入学を果たしますが、40年中退し京都高等工芸学校図案科に入学します。
1943年に同校を卒業しますが、時代はまさに第二次世界大戦の真っただ中です。画家を志しながらも応召し、無事に帰国した後、1947年の第2回行動美術展に「庭」を初出品し、彼の画家としてのキャリアがスタートします。
29歳のことでした。
その後、国内の様々な展覧会に出展し、数々の賞を受賞し、戦中派世代の旗手として注目を集めます。
1958年には外国美術の紹介が活発になったことから触発され、フランスへと旅立ちます。翌年にはサロン・ドートンヌに出展し、同年フランス・ビルヌーブ1等賞を受賞します。その後も多くの賞を受賞し、1961年にサロン・ドートンヌ会員となるなど、海外でもその実力を認められるようになりました。
田中阿喜良の独特な画風は、この少しあとに定着したようで、以降は田中阿喜良と言えば、「土のついたジャガイモのようだ」と表現されたような独特な画風になります。
生活の拠点はフランスでしたが、出展意欲は高く、世界のみならず日本でも多くの展覧会に出展、受賞するほか、1967年から3回に渡り日本でも個展を開くなど、多くの絵画を手掛けます。
1975年には神奈川県立近代美術館で「田中阿喜良展」が開かれるなど、国内外を問わず注目を集めた画家でしたが、1982年6月10日にパリにて心筋梗塞で亡くなります。享年63歳。
彼の作風は荒目のカンバスとビニール系の水性塗料を用いたマチエルを持つ白い下地に、パリの庶民を描くというような独特なものです。
特に作風が定着した晩年は、農婦やパイプを持つ男性など、パリを生きる人々、とりわけ年配の方々をモデルとした作品が多くあります。
彼自身よりも年配のモデルということは、第二次世界大戦という時代を、最も過酷な場の一つであるフランスという国で生き抜いた人々ということです。
同じ時代を生きた先達に対し感じるもの。
そこに何が込められているのかは分かりませんが、黒い色調の作風ながらどこか優しさを感じさせるこの彼の画風にその想いは宿っているようにも思います。
岡田 米山人は江戸時代中期~後期の南画家です。
岡田半江はその子にあたります。
通称を岡田彦兵衛、あるいは米屋彦兵衛と称し一説には彦吉とも称しました。名を国、字は士彦、通称は彦兵衛、米山人は画号です。
若いころには播磨神東郡剣坂村(兵庫県加西市西剣坂)の庄屋安積喜平治の下に寄食し、米をつきつつ書を読み勉学に励んだと伝えられていましたが、近年同地で襖絵などの作品、資料が発見されたことによりこれが裏づけられました。
その後大坂に出る意向を示すと喜平治より金銭的な支援を受け春米屋を営み、画号の米山人も稼業の由来であろうとされています。また安積家に仕えた乳母を妻に迎えています。
天明2年頃、商人でありながら伊勢国藤堂藩に仕え、寛政5年頃には津藩に大坂蔵屋敷留守居役の下役として仕え、その藩邸内に住んでいます。
絵は当時舶載のものを見たりしながらの独学だったようで、他の南画家には無い力強さと独特のセンスは近年評価が高まって来ています。浦上玉堂とは特に親交があり、田能村竹田に影響を与えています。
主要作品は『松下高士図』など、『秋山蕭寺図』が重要美術品指定となっています。
浜野 直随は江戸時代中期から後期の装剣金工家です。
1745年に生まれ、本姓は遠山といいます。
当初では中村直矩(なおのり)の下で学んでおりましたが、後に親戚関係でもあった浜野派の初代浜野矩随(のりゆき)の下で弟子として学んできました。
浜野派とは、浜野政随(まさゆき)を祖としており、矩随や直随などの弟子を育成してきた町彫りを代表していた流派です。この頃浜野派・奈良派・横谷派の江戸での装剣金工三派として一躍有名となりました。
町彫りは室町時代から江戸時代にかけて将軍家に仕えていた後藤家以外の金工が製作する小道具のことです。絵画のような彫刻製作を行ったことから町彫りの始まりとされています。
20歳の時独立をして江戸・浅草に開業を致しました。
作品としては赤銅や四分一を用いて高彫り色絵(裏面から輪郭を打ち出し、表面には図柄を加工する金工作品の基本となる技法)にて人物を彫りいれた鐔や小柄がを製作しており、得意としてきました。
浜野派を代表するほどの優工ともされてきました。のちに甲府や越後(新潟県)などにも訪れ、晩年では信濃(長野県)に住まれました。多くの作品を作られてきましたが、1819年に逝去されました。
昭和20年代の初めごろ、農業をしながら木彫に励んでいた初代山田昭雲。
そこへ訪ねてきた棟方志功に版画を勧められた際、彫刻刀で彫り進める棟方とは違いノミを金槌で叩きながら刻む様子に「叩き彫り」という表現をされた事で「叩き彫 山田昭雲」が生まれました。
とにかく地道に、細い線も小さな文字も、ひたすらノミでコツコツと叩いて彫るという方法が棟方にとっては新鮮だったのかもしれません。
二代目山田昭雲は、仏師初代の長男として1925年(大正14年10月10日)岡山県勝田郡に生まれ、旧制津山中学松戸高等航空機乗員養成所を卒業後、終戦を機に日本原の開拓地へ入植し、叩き彫を始めます。
1967年に第一回叩き彫昭雲展を京都で開き、 以後全国各地で200回余の「叩き彫昭雲展」を開きました。
昭和33年に離農して故郷へ帰り彫刻に専念し、昭和55年には日本原の元開拓地の一隅に工房を建てました。
二代目は叩き彫とはどんな掘り方かとよく尋ねられたそうです。その際は「コツコツとリズミカルに彫るのです」「師の門をたたくという気持ちなのです」また、「世の人々に問うという仕事なのです」と答えていたそうですが、これらは全て、初代の教えだったそうです。
現在は叩き彫三代目、尚公により祖父の作風を今に伝え続けられています。
井上稔は1936年4月16日、京都市に生まれた日本画家です。
中村大三郎の弟子となり、日本画を学んで徐々に頭角を現していきます。
井上稔の影響かどうかは分かりませんが、兄である野々内良樹(1930~2009)ものちに日本画家となり、弟の野々内宏(1938~)も日本画家になります。
三兄弟が皆日本画家という家族も珍しいのではないでしょうか。
1954年4月、京都学芸大学(現京都教育大学)特修美術科日本画に入学、1957年の第13回日展に『校倉』初入選。1959年3月に卒業後、4月に同専攻科(現京都教育大学大学院)に進み全関西美術展に『風景』出品、佳作賞受賞。
兄良樹、加藤美代三、下保昭、福本達雄、三谷青子らとともに朴土社を結成しています。
その後日展や京展での多数入選、受賞などを経て、2011年1月6日~3月6日には奈良県立万葉文化館で「井上稔展-奈良に魅せられて-」を開催、作品56点を展示。3月6日、奈良県立万葉文化館にて美術講演会の講師をつとめています。