坂倉 新兵衛

坂倉新兵衛は山口県長門市深川にある萩焼の窯元です。萩焼は慶長(1592年~1598年)の折、毛利輝元公が朝鮮李朝の陶工、李勺光、李敬を日本に招いたことによって始まったと言われております。

半世紀後に、李勺光の子である山村新兵衛光政の高弟、赤川助左衛門、助右衛門、蔵﨑五郎左衛門の一統らが、深川三之瀬の地に移り窯を築き上げました。その後に山村新兵衛光政の子である山村平八郎俊も移住し、潘の御用窯として「三之瀬焼物所」が創業されました。これが萩焼深川窯の始まりだと言われております。

当代である十五代・坂倉新兵衛は1974年に作陶の世界に入りました。東京芸術大学を卒業後に同大学院にて陶芸専攻を修了致しました。その後、藤本能動や田村耕一に師事し修行しました。

1987年に十五代坂倉新兵衛を襲名いたしました。その後自己表現の方法として「象嵌」という技法を取り入れ、萩の土味を生かした温かみのある作品を作り続けております。

2013年には県の無形指定文化財に指定されております。

月形 那比古

月形 那比古は鬼志野創始者であり、「炎の陶工」と謳われた日本の陶芸家です。

1923年、新潟県糸魚川市に専業農家の5人兄弟姉妹の三男として生まれます。
父は石刻匠で母は華道家という家庭環境でしたが、5歳の時に不慮の事故で父が急逝し、母子家庭で育てられます。家計が苦しかったので、旧制中学時代に国鉄糸魚川駅で実家で採れた野菜を戸板に乗せて販売し、家計を支えました。

新潟県立長岡工業学校へ入学し在学中に荒川豊蔵に運命的な出会いをした月形那比古はのちに、荒川豊蔵の創作精神と美学に傾倒していきます。
新潟県立長岡工業学校卒業後、早稲田大学在学中の1941年に学徒出陣、第二次世界大戦へ参戦しました。戦後、復学し日本大学芸術学部を卒業します。

美濃の岐阜県に住居兼作業場を構え,1955年頃に独自の研究を基に半地下式穴窯を築き、薪を燃料とする独自焼成方法を発見探求、志野をさらに極端なまでの長時間焼成する「鬼志野」を発表し、昭和陶芸界に衝撃を与えました。

1964年当時、陶芸作家という言葉は一般的認知度は低く、当然陶芸並びに創作活動だけでは食べていくことは出来にくい状況でした。
その頃、日本における現代舞踊の第一人者として有名だった石井漠の一番弟子の石井みどり芸術バレー団の舞台監督を任されることになり、創作活動の一環として、舞台監督を約5年ほど挑戦します。挑戦するも食い足りなく、求めている心境も満たされないと感じるようになります。
自分を見つめ直し模索していた月形那比古は第二次世界大戦での悲惨な体験を元に、彼らのためにも自分は出家し、尺八を法器として一千日の托鉢修行を行います。托鉢修行から受けた禅の精神を反映させた作品も多くそれらは「禅の陶芸」「禅陶」とも言われました。
月形那比古は陶芸の他にモダンバレーの舞台監督、絵画、映画、写真、建築、篆刻、書、彫刻などジャンルを超えた多彩な才能を発揮しました。

また、1970年代以降には鬼志野作品がアメリカを中心とした海外にも紹介され、国際的に鬼志野が紹介され、海外の陶芸家などにも大きな影響を与えました。

伊勢崎 満

伊勢崎 満は、岡山県重要無形文化財保持者であり、伊勢崎淳(人間国宝)の兄です。

1934年岡山市備前市に岡山県重要無形文化財の細工師であった、伊勢崎陽山の長男として生まれました。

岡山大教育学部特設美術科を中退後は、家業の作陶を手伝いながら修業しました。弟淳とともに備前で初めて中世の半地下式穴窯を復元し、古備前の再現に尽力しました。器肌に線条にでる火襷の技法を父から受け継ぎ、茶器や花器などを制作しました。

備前焼のルーツは、古墳時代に遡ります。須恵器(すえき)の製法が変化し、鎌倉時代~桃山時代にかけて、現在のような形に落ち着きました。
 堅くて割れにくいため、多くの茶器や茶陶として愛用され、庶民の日用品として大人気になりました。
1982年に国の伝統的工芸品に指定されるなど、現代にも親しまれています。また、2017年4月には、「きっと恋する六古窯 - 日本生まれ日本育ちのやきものの産地 - 」として日本遺産に認定されています。

備前焼は、「釉薬」(素焼きの陶磁器の表面に塗る薬品)を一切使用せず、絵付けもしないという究極にシンプルな焼き物。
1200〜1300度の高温で焼き、土の性質や、窯への詰め方、窯の温度の変化、焼成時の灰や炭などによって模様が生み出されます。一つとして同じ色、同じ模様にはならない、手作りの味わい深さが魅力で、使えば使うほどに味わいが増していくのも特徴です。

河井 武一

河井 武一は河井寛次郎の甥であり、寛次郎の一番弟子です。

武一は1908年島根県安来に生まれ、1927年寛次郎の元にて陶磁器の修行を開始します。

寛次郎の窯元へ修行に来ていたバーナード・リーチと共に作陶活動をしていました。寛次郎が没するまで40年近くにわたりその指導を受け、呉須、辰砂、飴釉、鉄釉など寛次郎の民藝芸術を伝承しました。

河井 寛次郎とは、大正・昭和にかけて京都を拠点に活動した日本を代表する陶芸家の一人です。
河井寛次郎は島根県に生まれ中学生のころから陶芸家を目指していました。
河井寛次郎氏の芸術性は国内のみならず海外でも高く評価され、人間国宝や文化勲章の授与等もありましたが辞退し、一陶工として焼き物に生涯向き合い続ける事を選択しました。
現在、東山五条に河井寛次郎記念館が建てられています。

 

大淵 光則

大淵 光則は富山県出身の金工作家です。非常に細かい部分まで表現された作品が多く、発表のたびに驚嘆の渦を巻き起こしてきました。

大淵光則は1932年に富山県に生まれます。1948年に金工業界の名門である早川徳太郎氏に師事し、徐々に頭角を現していきます。1970年には、より銀器工芸の知識を深めるためにイタリアに渡ります。その5年後に、第1回東京銀器新作コンクールにて最高賞である「東京都知事賞」を受賞しました。1979年には第5回日宝連全国統一創作品コンクールにて最高賞である「内閣総理大臣賞」を受賞しました。1980年には世界最大のプラチナ製のヴィーナス像や、プラチナ純金製の名古屋城の製作を行い、翌年の第7回東京都銀器新作コンクールにて「東京都知事賞」を受賞、さらに第6回プラチナデザインコンテストにて「プラチナギルド賞」を受賞しました。数多くの作品が認められた事により、第125代天皇陛下御即位の礼記念「純銀貨 祥鶴」、皇太子御結婚記念「純銀製 双祥鶴」の製作を任されました。1998年には新技法や開発研究を行い、数多くの新作を発表しました。

伝統と文化を継承し、銀器業界の発展と伝統工芸品の魅力を世の中にもっと知ってほしいという思いから、2019年にブランド「光則」を立ち上げました。工房では数十人の職人の方々が先代のものづくりに対する姿勢を受け継ぎ、新たな価値を見出す為に日々制作に取り組まれております。

服部 峻昇

服部峻昇は京都を代表する漆芸家です。

1943年の京都に生まれ、高校の美術工芸漆芸科にて漆芸を学びました。
1964年には塗師の上原清に師事し、翌年には漆芸家の浦省吾に師事しています。工芸展などで数々の賞を受賞しながらヨーロッパ、アメリカ、中国、韓国などを渡り技を磨いてきました。また、1970年から1978年までは京都の若手漆芸家グループ「フォルメ」に参加し、同人活動を行っておりました。

80年代ごろまではパネルなどを使った平面的な作品を中心に制作していましたが、その後は飾り棚や飾箱の制作に傾倒していきます。服部峻昇の代表的な特徴ともいえる、螺鈿(耀貝)の光彩を活かした作品もこの頃から制作の中心となっています。

2004年からは玉虫の翅を作品に取り入れ、晩年にして新たな装飾表現を開拓しました。
美しい作品を作り上げる為、自ら材料を厳選していた服部峻昇。国産の漆をはじめ、扱う材料はどれも希少な天然素材ばかりです。天然素材故に色味や形の厳選に労を要しますが、自然にしか映し出せない虹光の美しさに人々は目を奪われることでしょう。

 

 

 

 

清風 与平

初代 清風 与平 清風 与平は江戸から続く京焼有名な陶芸一家です。初代清風与平は京焼で有名仁阿弥道八(2代高橋道八)に師事したと言われており、染付(青華)、白磁、色絵、乾山を非常に得意としておりました。文政初年に道八の命 …

高橋 草坪

高橋草坪は日本の文人画家です。 文化元年頃に現在の大分県杵築市の商家・槇屋(高橋氏)休平の次男として生まれました。 本名は雨、字は草坪、元吉、通称は富三郎と言い、草坪はその号で、他に草坪寒民、草坪間人、草坪逸人などと号し …

大綱 宗彦

大綱宗彦は江戸時代後期の臨済宗の僧侶です。 安永元年京都に生まれ、6歳の時に大徳寺黄梅院、融谷宗通の下で得度を受け臨済宗大徳寺派の僧侶となりました。 臨済宗は仏の道を説くとともに茶の湯や書画をたしなむことを奨励した宗派で …

竹田 益州

 竹田 益州は昭和を代表する臨済宗の僧侶です。法諱は宗進、道号は益川、室号は金剛窟です。   1896年大分で生まれ、尋常小学校3年の時近くの施恩寺という禅寺に5、6日滞在したことが縁となり、1906年に滋賀県大津市堅田 …

田中 阿喜良

田中阿喜良(本名:中島阿喜良)は1918年8月20日8月20日に大阪府で生まれた洋画家です。 彼が生まれた時代は第一次世界大戦の終わり。 この後に世界恐慌が発生し、第二次世界大戦へと向かっていく、軍国主義、全体主義という …

岡田 米山人

岡田 米山人は江戸時代中期~後期の南画家です。 岡田半江はその子にあたります。 通称を岡田彦兵衛、あるいは米屋彦兵衛と称し一説には彦吉とも称しました。名を国、字は士彦、通称は彦兵衛、米山人は画号です。 若いころには播磨神 …

浜野 直随

浜野 直随は江戸時代中期から後期の装剣金工家です。 1745年に生まれ、本姓は遠山といいます。 当初では中村直矩(なおのり)の下で学んでおりましたが、後に親戚関係でもあった浜野派の初代浜野矩随(のりゆき)の下で弟子として …

山田 昭雲

昭和20年代の初めごろ、農業をしながら木彫に励んでいた初代山田昭雲。 そこへ訪ねてきた棟方志功に版画を勧められた際、彫刻刀で彫り進める棟方とは違いノミを金槌で叩きながら刻む様子に「叩き彫り」という表現をされた事で「叩き彫 …

井上 稔

井上稔は1936年4月16日、京都市に生まれた日本画家です。 中村大三郎の弟子となり、日本画を学んで徐々に頭角を現していきます。 井上稔の影響かどうかは分かりませんが、兄である野々内良樹(1930~2009)ものちに日本 …

REUGE リュージュ

リュージュはスイスで生まれたオルゴールメーカーです。 創業者はシャルル・リュージュ。 彼が1865年にスイスのサンクロワに移住したところから始まります。 初めはオルゴールのついた懐中時計を作ります。 産業革命の波はかなり …

浦口 雅行

伝統的な青磁のみならず、作品にて新な技術や表現をされている陶芸家の浦口雅行さんです。ダイナミックに独特な作品によって多くの人を魅了してきました。 浦口雅行さんの作品には「浦」の文字が刻まれており、箱にも「浦」の文字の烙印 …

渡辺 武夫

渡辺武夫は出生地が東京都墨田区、出身地が埼玉県浦和市の洋画家です。 幼少期に東京都墨田区から埼玉県浦和市に移り住み、現代での高校2年生の時には画家になる決意を固めて、東京美術学校に入学をします。在学中である1938年に光 …

遠藤 昭吾

遠藤昭吾は、東京都生まれの洋画家で、川端画学校、阿佐ヶ谷洋画研究所で油彩画の基本を学びました。川端画学校は1909年(明治42年)に東京都小石川下富坂町に日本画家の川端玉章が創立した私立美術学校です。太平洋戦争の最中に廃 …

ミューラー兄弟

ミューラー兄弟とは、フランス・モーゼル地方出身のガラス工芸の一家であり、ランプなどのガラス作品を製作するメーカーでもあります。 9人の息子と1人の娘の10人兄弟を総称して「ミューラー兄弟」と呼ばれています。 普仏戦争の時 …

四代 山田常山

山田常山は初代山田常山から、四代山田常山まで続いている陶芸家です。朱泥、緑泥などの中国急須や常滑焼を中心に作品が多く作られています。四代山田常山は、1954年に愛知県常滑市にて生まれました。 1980年に美濃陶芸展で長三 …

松久 宗琳

松久 宗琳さんは京都生まれの正統派京仏師です。 1926年に仏師 松久 朋琳の長男として京都市に生まれました。幼少期は画家を志し絵画の勉強に励んでおりましたが、病を得て父の元に帰り、仏像彫刻の道を歩み始めます。 1962 …