三輪休雪は、萩焼窯元・三輪当主が代々襲名している陶芸作家としての名称で、単に休雪(きゅうせつ)とのみ呼ばれることもあります。
三輪家の歴史は古く、江戸時代から400年続く伝統的な窯元です。世襲制の当主も現在まで十三代続いておりますが、400年の道のりの中で一度衰退したといわれるまでに落ち込んだことがあります。
そこから再度萩焼を盛り立てたのは、十代目休雪と十一代目休雪でした。その最大の功績は「休雪白」と呼ばれる純白に近い萩焼です。白萩釉を使用することで作り出す白は、まさに春の雪解けを感じさせる温かみのある仕上がりとなっています。
後に十代目と十一代目の休雪は人間国宝にも指定され、当代の十三代目休雪にも休雪白は引き継がれ、白萩釉を使用し「休雪白」が作り出す渾身の純白、ダイナミックな造形美と、使い込むことで顔を変える「七化け」と呼ばれる萩焼の特徴を生かした作品が数多く輩出されるようになってきました。
高畠華宵は愛媛県宇和島市裡町に生まれの日本画家です。雑誌や新聞の挿絵・広告絵などを描いて、人気画家として一世を風靡しました。大正から昭和初期にかけて、華宵の絵は当時の少年少女の間で絶大な人気を得ました。津村順天堂のポスターを描くようになり、広告界へ参入します。雅号を「華宵」とし、講談社をはじめとして多くの出版社の挿絵や装幀(そうてい)を手がけるようになり、一躍人気作家となります。その後、「華宵便箋」が発売されるなど、常に大衆生活との密接なつながりを保ちながら活動します。大正から昭和初期にかけて独自の美人画で一世を風靡し、「銀座行進曲」の歌詞にも登場するなど、大正ロマン期を代表する人物の一人です。画風は妖艶さと清楚さを併せ持つ少女画・美人画と、凛々しく潔い、色香を漂わせる少年画は一目で彼の作品とわかるほどの個性を放っています。
その後『少女画報』『少女倶楽部』『少年倶楽部』(いずれも講談社)『日本少年』『婦人世界』(いずれも実業之日本社)などの少女向け雑誌や少年雑誌、婦人雑誌などに描いた独特な美少年・美少女の挿絵や美人画は一世を風靡し、竹久夢二らと並ぶ人気画家となりました。1926年には自身の意匠による便箋や封筒を発売するなど、現代でいうメディアミックス風のプロモーションも行い、当時の流行歌「銀座行進曲」の歌詞に「華宵好みの君も往く」と歌われるほどになりました。
日本近代木彫界の巨匠「平櫛田中(ひらぐしでんちゅう)」の彩色を担当していた
彩色木彫の第一人者・「平野富山(ひらのふざん)」が父になります。
平野千里は20 歳でイタリアへ留学し、西洋彫刻の技術を学んだ後、帰国しました。
帰国後は父、平野富山に極彩色の教えを受け、日本の伝統技術である
極彩色技術を今に伝える唯一の彫刻家になります。
上村松篁は日本画の巨匠である上村松園を母に持ち、上村松篁も花鳥画の最高峰と言われた作家です。
京都に生まれた上村松篁は、幼いころより母・上村松園が絵を描いていたことも影響して自然と画家を志すようになります。しかし、松園は絵を描くところも絵の手ほどきをすることもなかったそうです。ただ、松園が骨董屋が持ってくる商品を見定めているのを見聞きして、松篁は品の高い物などを見分ける実力をつけていきました。
松篁は花鳥一筋で絵を描いておりますが、そのルーツとしては松篁が6歳の時に見た、鳥かごから鳥が一斉に飛び出す様子がとても美しく映ったことであり、その後はどんどん花鳥の魅力に惹かれていきます。
その後は母・松園が格調高い女性像を一筋で追い求めたように、松篁も格調高い鳥の絵を追い求めました。
リアリズムに影響を受け、写実的なものの中に美しさを追い求めて日々スケッチを繰り返したり、アトリエの中に鳥小屋を設けて280種類もの鳥を飼育して花鳥の美を追い求めた上村松篁の作品は、今も人気の高いものとなっています。
ルネ・ラリックは、フランスで活躍したガラス工芸作家です。
1860年、フランスはシャンパーニュ地方のマルヌ県アイ村に誕生し、パリで育ちました。1876年にパリの装飾美術学校に入学します。夜は学校で学びながら、宝飾工芸家のルイ・オーコックに師事し、金細工・装飾等の技術を習いました。
1878年~1880年までイギリスに滞在し、サイデナム・カレッジで学びました。再びパリに帰ったラリックは、1882年頃からフリーランスの金細工師・宝飾デザイナーおよびグラフィック・アーティストとして活躍しはじめます。名はすぐに知れ渡り、2,3年ののちにはパリのヴァンドーム広間にアトリエを構えるまでになっていました。この頃のラリックは主に女性向けの高級アクセサリーをデザインしており、カルティエ等に著名な宝飾店にも作品を提供していました。
1900年にはパリ万国博覧会での宝飾作品が大きな注目を集め、さらに名声を集めます。
1892年頃からラリックは、宝飾品の素材の一部にガラスを取り入れていていましたが、本格的なガラス工芸の水戸へと進んだのは、ファッションの流行がボリュームのあるふくよかな服装からシンプルなラインを強調するスタイルに移った為、派手な装飾がある宝飾品が売れなくなったからと言われております。
ラリックは乳白色で半透明のオパルセント・グラスを好んで用い、作品には動物・女性像・花などアール・ヌーヴォー時代に好まれたモチーフが多く見られます。
ラリックの歴史は息子、また孫娘が継承しており、ラリック製の作品は現在まで長く愛されております。
川瀬 忍は、中国陶磁に倣った名工・川瀬竹春(初代および2代目)に師事し、
18歳から陶芸の道に入った川瀬は、青磁を発表するようになるとすぐにその質の高さで注目された。細部まで隙のないシャープなかたち、静謐で深い青の釉調といった、洗練された美を湛える川瀬の作品は「忍青磁」と呼ばれ、今日まで多くの人を魅了しております。