四代徳田八十吉は、代々続く九谷焼の名跡「徳田八十吉」の当代です。
人間国宝・三代八十吉の長女として1961年に生まれ、現在も活躍されている作家さんです。
幼いころより父の背中を見て育ちましたが、当初は陶芸家になるとは考えていなかったそうです。青山女子短期大学を卒業後はNHK金沢放送局に就職し、ニュースキャスターをしました。
転機が訪れたのは二十代半ばの頃。アメリカの美術館に飾られていた中国の景徳鎮の壷を見た時に、自身のルーツを顧みたといいます。
その後は陶芸家としての道を歩み始め、陶壁制作などで頭角を表していきます。徳田八十吉の製陶技術、三代の耀彩技術を継承し、三代没後の2010年には四代徳田八十吉に襲名しました。
作品の特徴はやはり、三代から受け継ぐ耀彩技術を用いた磁器でしょう。いくつかの配色がグラデーションとなって立ち現われ、絵付を必要とせずに鮮やかな作品が出来上がります。四代の配色はどこか柔らかさやつつましさを感じさせるようで、三代とはまた違う気品が見て取れるでしょう。
三輪晁勢は、新潟県出身の日本画家です。
1901年に生まれ、昭和期に多くの優れた作品を残されました。
父の影響から、晁勢は小学校を卒業した後より絵を学び始めました。その後、京都市立美術工芸学校を卒業したあと、京都市立絵画専門学校に入学します。そこで同校に在学していた堂本印象に師事することとなり、以降印象との関係は長く続くこととなります。
同校卒業後は帝展で初入選、また特選を二度受賞するなど大きな躍進を遂げます。師・印象が画塾「東丘社」を結成すると、そこでは塾頭として中心的な存在となりました。
戦後は日展を中心に活動し、のちに日展評議員となった他、師・印象の没後は東丘社の主宰となるなど日本画壇で位置を占めるようになりました。
広い画題を扱い、鮮やかな色彩を用いた画風が特徴となります。色彩から迫力を感じさせるような風景画を描く一方、華やかな色味ながらどこか落ち着きのある花鳥画が特に印象的で、風景と花鳥は晁勢の画題の中でも人気のあるものとなります。
森一鳳は、江戸時代後期に活躍した絵師です。
写生的な画風が人気を呼び、多くの作品が今でも親しまれております。
森狙仙、森徹山に続く森派の絵師であり、同時に弟弟子の森寛斎とともに森派最後の絵師として語られております。
播磨国吉田村(現・兵庫県)を出世の地とし、丸山応挙や森徹山に学びました。24歳の時に徹山の養子となって森派を継承し、代々森派が仕えてきた熊本藩細川家のお抱え絵師となります。
一鳳は写生を基本とした画風で、季節感のある描写を得意としました。一流の絵師としての人気を確立していた一鳳ですが、その地位を確固たるものにしたのは「藻刈舟」を題材にした作品です。
藻刈舟とは、舟運の妨げとなる藻を刈る舟のことです。当時の大阪の商家では「藻を刈る」=「儲かる」として藻刈舟絵が縁起物的な人気を博していました。その中で一鳳の描く藻刈舟絵は「藻を刈る 一鳳」=「儲かる 一方」となることから、大変縁起が良いと評判になりました。
大阪の商人たちがこぞって求めた森一鳳の作品は、単なる洒落気のみではない魅力がございます。機会があればじっくりとご覧になってみてください。
松井ヨシアキさんについてご紹介させていただきます。
1947年に福井県福井市にて松井さんはお生まれになられました。
松井さんの詳細は多くが語られておりませんが、洋画家としての芸術性の高さは誰もが認めるほど素晴らしく、近年評価が高くなってきております。
25歳で初個展を開催以降、37歳で第19回昭和会展に出品、昭和会賞を受賞。そこから怒涛のように40を超える個展が開催され、多くの方に松井さんの魅力が伝えられていきました。
そんな松井さんは1995年、パリで個展を開催する機会に恵まれました。それが松井さんの転機となったのでしょうか。以来、パリを毎年のように訪れ、数カ月過ごすというような生活をされ、それが松井さんの絵の大きなテーマとなっていきました。
松井さんの作品は街角の風景やそこにいる人々などを題材にしていることが多く、実際に松井さんが散歩をしてその通りを歩いたり、素敵な人々と出会ったのだと想像できるような作品が多いのが特徴です。さらに、絵の具に大理石を混ぜて厚塗りをする技法によって、少しだけ煌びやかに、そして絵柄も相まってファンタジックな作風になっているところが、多くの人の印象に残るのではないでしょうか。
すでに注目されている作家ですが、評価も年々上がっているため今後ますます人気が出てくると思われます。
ロバート・ワイランドは国際的に有名な海洋生物アーティストです。画家、彫刻、作家、写真家、慈善家、映画製作者としても活躍している経歴を持っています。
海洋生物アーティスト(マリンアーティスト)といえば日本だとラッセンが人気ですが、世界的にはラッセンと並ぶほどの人気があり、マリンアーティストの第一人者とも呼ばれています。
ワイランドは、19歳の時に世界中の100カ所に壁画を描くという壮大な挑戦を始めました。1981年から始め、30年近い年月をかけて100枚を超えるマリンアートの壁画を完成させ、プロジェクトを達成しました。このプロジェクトは「ホエーリング ウォールズ」という名がつき、史上最大の公共芸術プロジェクトの 1 つとなっています。この世界的プロジェクトで描かれた作品は、年間で推定10 億人が鑑賞し続けています。
その他にもカリフォルニア州ロングビーチのコンベンションセンターに描いた巨大な海洋壁画は、3エーカー(12140㎡)以上の大きさでギネス世界記録に登録されるなど、多くの活動を行っています。
ワイランドのこれらの活動は全て自然保護の為の行動で、環境問題への関心を高めるための活動として取り組んでいます。美術や芸術を通して地球の大切さなどを訴え続けています。
渡辺正雄は1917年、福島県船引町に生まれました。
宮城県白石矩福岡八宮弥治郎地区を産地とする「弥治郎こけし」の佐藤辰雄に師事し、木地の技術を学びんだこけし職人です。
「弥治郎こけし」の一番の特徴は、華やかな衣装を身に着けている点です。蝶や花など女性らしいモチーフの絵柄やカラフルな彩色が施され、頭頂部にはろくろ線によるベレー帽のような模様が描かれます。
こけしには4種類あり、大きく分類すると「伝統こけし」「新型こけし」「創作こけし」「木地玩具」に分けられ、そのうち伝統こけしは、産地や工人ごとに特徴がありさらに10~12種類に細分化されます。
「弥治郎こけし」は伝統こけしに属しますが、渡辺正雄は創作こけしや新型こけしも多く制作しました。
また、こけし作家として数多くの賞を受賞しています。主な受賞歴として、1963年に全国こけし人形コンクールで内閣総理大臣賞を受賞、そして1971年には全日本こけしコンクール内閣総理大臣賞を受賞しました。