1939年、鈴木爽司は京都で陶芸家である。鈴木清の長男として生まれ幼い頃から、陶芸が身近にある環境で育ちました。
京都府工芸美術展に12歳という若さで初出品、入選を果たすと、本格的に陶芸家になることを決意して京都市立美術大学へ進学しました。在学中に陶芸の基礎を学び、人間国宝で陶芸家の富本憲吉や六代目・清水六兵衛から薫陶を受けたことが鈴木爽司に大きな刺激となります。
鈴木爽司が29歳の時、日展に初出品、入選して以降、13年間連続で入賞を果たしました。
鈴木爽司は京焼の作家として活躍しており、父親も陶芸家として活躍していたため、鈴木家の伝統である磁器型物の技法と絵付師としての花鳥画の伝統を受け継ぎ、京焼らしい雅な作品を作り続けております。
彼が得意としている色絵金銀彩という技法ですが、白い肌に品良く描かれた色絵に金彩・銀彩をともに施す技法です。色絵に金や銀で加飾する際、金と銀では融点が異なるため同時に焼成できないのです。そこで彼は金と銀を両方用いた作品を作りたいと、銀に白金を混ぜることにより困難を可能とし、同時に焼成し金銀彩が共存する素晴らしい世界を生み出しました。
鈴木爽司が生み出したこの技法は、現在では多くの作家が用いるようになり、陶芸世界の新しい表現を追求しております。
現代的な造形と花鳥に草花など写実的に描き、京都では数少ない現代工芸作家協会でも活躍を見せています。
須田祥豊は1885年京都府生まれの陶芸作家である。須田祥豊は家業である製陶業に従事し、明治時代末期には祥雲と称し、茶陶制作を始めるようになる。後に五条坂に窯を築くと、国焼、朝鮮の写しを中心に作陶を行うようになる。朝鮮、唐津、仁清、高取、青井戸、京焼き、瀬戸、伊羅保、三島、光悦、信楽、安南、三島など様々な写しを得意とした作家で、数々の端正な作品を残した。幅広い作域は現在の作家の中ではなかなか見られる事がないため、幻の名工として知られている。制作された茶器は、重すぎず、軽すぎず、大きすぎず、小さすぎない絶妙なサイズ感が茶人達からの評価が高く愛され続けている。須田祥豊が1974年に逝去してからは2代目が須田祥豊を継ぐも、作陶は行われておらず、須田祥豊の名はまさに幻となっている。
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真清水蔵六は初代から4代続く京焼の陶工である。現在は4代目真清水蔵六が家業を継いでいる。初代真清水蔵六は、江戸末期から明治の京都の陶工である。山城国(京都府)に生まれ、清水太三郎(たさぶろう)と称した。13歳のとき、陶法を和気亀亭(わけきてい)に学び、16歳で青磁を焼き、注目を集めた。当時の陶業界の時流にのって中国、朝鮮、ベトナムなどの東洋古陶磁の陶技を習得し、1843年に京都五条坂に開窯して真清水蔵六と改めた。中国,朝鮮の古陶を学び,特に青磁の分野において秀でた才能を発揮した。「青磁の蔵六」とも呼ばれ、京都五条坂において青磁を制作する陶工の先駆けとして活躍した。
明治には外国博覧会にも出品,色絵・金襴手・青磁・染付等を作り,茶器を得意とした。茶道具買取で注目される作家のひとりである。
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川瀬 忍は、中国陶磁に倣った名工・川瀬竹春(初代および2代目)に師事し、
18歳から陶芸の道に入った川瀬は、青磁を発表するようになるとすぐにその質の高さで注目された。細部まで隙のないシャープなかたち、静謐で深い青の釉調といった、洗練された美を湛える川瀬の作品は「忍青磁」と呼ばれ、今日まで多くの人を魅了しております。
清水 六兵衛(しみず ろくべい)は、江戸時代中期以来の清水焼の陶工です。
京都五条坂の陶芸の家系であり、当代・清水六兵衛は八代目となります。
初代 (1738~1799) は京都五条坂の窯元・海老屋清兵衛に学んだあと、独立して五条坂に窯を開きます。そこから六兵衛を名乗りはじめました。茶器、煎茶器をはじめ置物や文房具なども製作し、野趣に富む六兵衛風として独自の京焼を体現しました。
二代以降は初代の築いた土台から、中国や日本の諸陶の写し、染付、赤絵、青磁など様々な焼物を制作しました。中でも六代・清水六兵衛は、新しい焼成法「玄窯」や新釉「銹泑 (しゅうよう) 」を開発するなど創作陶芸に新風を吹き込み、芸術性を高めるとともに清水六兵衛の名を広く知らしめました。
伝統的な京焼の作風を生かしつつ、食器から花器、インテリア、茶陶など様々な作品を製作し、当代に至るまで常に新しいものを生み出し続けています。
子ども時代に惚れこんだ古代の土器を元に作陶を行う陶芸家・肥沼美智雄。唐草紋を配した置物や角張った花器などで確立された独自の作風は、その造形の巧みさから人気を得ています。
肥沼は1936年、東京の青梅で生まれました。小学校時代、担任の教師に連れられ参加した遺跡の発掘が、その後の肥沼に大きな影響を与えました。大学進学後もこの時の体験が忘れられず、自身の手で作品を作りたいとの思いから大学を中退、陶芸家へ転身しました。
1970年には栃木県の益子に窯を築いて独立を果たし、その後は北関東美術展で優秀賞を獲得、都心での個展開催などを重ねその知名度を高めていきました。
現在は茶器やぐい呑み、花入れ、オブジェなど様々なタイプの作品をその独特な作風で制作しています。