野呂介石は江戸時代後期に活躍した日本の文人画家です。
主に花鳥水墨画を得意とし、詩文にも定評がありました。
紀州藩に仕えており、祇園南海や桑山玉洲と共に紀州三大南画家と呼ばれています。また当時は長町竹石、僧愛石らと共に「三石」とも称されていました。
その生い立ちは紀州和歌山城下の町医の元に生まれます。10歳の頃に中国の画法を独学で得ようとしましたが上手くいかず、14歳で上京。その際に長崎派の画法を習得します。
一度郷に戻っていますが21歳で再び上京。池大雅に師事し南画を学び始めます。
京都と和歌山を10年間行き来しながら毎日山水画を描くことを日課としていました。
28歳の時に師の池大雅を失う。その後桑山玉洲らと交流し名を成すようになります。
頼山陽や田能村竹田らとも交流があったとも伝えられています。
介石は画は人の為では無く、己の楽しみの為とし、胸中に真山水を貯えれば、自ずと手が応じるとして、画を求道しました。