近世から近代にかけて活躍した代表的な日本画家である橋本雅邦、狩野派の描法に遠近法の概念を取り入れたその作品は、革新期の日本画を代表するものとなっています。
橋本雅邦(本名・長郷)は1835年、武蔵野国川越藩御用絵師・橋本養邦のもとに生まれます。幼い頃から父に絵を習い、12歳にして木挽町家狩野派の狩野養信・狩野雅信に入門します。同時期には近代日本画の父、狩野芳崖も入門しており、二人は親友となりました。早くから卓越した技術をみせ、芳崖とならんで雅信の弟子の代表格といえる存在になります。
1860年に「雅邦」の号をうけ、独立しますが、当時の国内情勢は幕末の動乱の最中でした。絵画の需要は激減、師の狩野家が火災で焼失、さらに廃藩置県で川越藩が廃止されるなど苦境に立たされます。なんとか海軍兵学校の製図係の職を得ますが、本職である日本画を描く機会は失われてしまいます。
そんな雅邦を救ったのが、お雇い外国人、アーネスト・フェノロサによる伝統芸術の復興運動です。芳崖と共に画を描く機会が与えられ、二人は新たな日本画を目指し研究を重ねます。1886年には文部省に転じ、フェノロサ・岡倉天心のもとで、東京美術学校の立ち上げに参加しました。しかし開校前年に親友・芳崖が死去。芳崖が着任する予定だった美術学校絵画科主任は、雅邦に任せられます。学校設立と同じくして帝室技芸員にも選定され、文字通り日本美術界の最高峰となりました。その後は教員として横山大観や下村観山、菱田春草といった、後の日本画界の中心人物たちを育成します。しかし、岡倉天心が美術学校を追われたことに反発し退職。その後は日本美術院に活躍の場を移しました。多くの画家たちにその技術を伝え、1908年、その生涯を終えました。
代表作の『龍虎図屏風』は、1955年に近代絵画初の国指定重要文化財となり、現在は世田谷の静嘉堂文庫に収蔵されています。
富岡鉄斎は京都出身の儒学者ですが、文人画家としても近代日本の美術界に多大な功績を残した人物です。
1837年に京都の商人の家に生まれ、幼い頃から様々な学問を学びました。19歳の頃には南画や大和絵の技法も習得しています。1862年には私塾を開設し、幕末の志士たちと交流を深めています。明治維新の頃は奈良や大阪で宮司を務めますが、同時に教育者でもあり続け、後に首相となる西園寺公望の私塾、「立命館」で教員となったこともあります。
画家としての技量も非常に高く、多くの展覧会で審査員も務めています。また、1897年には田能村直入などとともに日本南画協会を設立し、南画の振興にも努めています。その作品は中国故事の深い知識と、様々な東洋画法を駆使した独創的な表現で、後に「仙境図」と呼ばれるようになります。
鉄斎自身は自分の本職は儒学者であるとし、「万巻の書を読み万里の路を行く」という言葉の通り、各地を旅し、多くの文物に触れています。その姿はまさに「最後の文人」と呼ぶにふさわしいものでした。
福井江太郎は特徴的な駝鳥(ダチョウ)の絵で知られる日本画家です。家は代々画家の家系で、自身も芸術家の道を選び、1994年に多摩美術大学大学院美術研究科を卒業します。
卒業制作でダチョウを描いたことがきっかけで、以後ダチョウをテーマにした作品を数多く描いています。従来の日本画を覆す特徴的なダチョウの姿は作品に独自の空気感を与えています。
また2005年頃からは菖蒲や牡丹といった、花をテーマにした作品も制作しています。琳派の日本画技法を取り入れつつも、色彩が迸り躍動感さえ感じられる福井の作品は、まさに新時代の日本画といえます。
個展などで多くの作品を発表しているほか、ライブペインティング(観客の前で絵を描くパフォーマンスアート)も行っており、現在も各地でイベントを開催しています。2006年にはその功績が評価され、紺綬褒章も受章しています。
片岡球子は戦後日本を代表する女性日本画家です。
女子美術専門学校(現女子美術大学)日本画科を1926年に卒業し、小学校教員として勤めながら制作を行いました。1930年・33年の院展で入選を果たしますが落選も多く、1939年の院展以降安定して入選するようになります。1950年には母校の女子美術大学で日本画科講師に就任、65年には教授となります。翌年、愛知県立芸術大学に移り、日本画科主任教授となりました。1976年の勲三等瑞宝章を始まりに、日本芸術院会員に選出、文化功労者顕彰と続き、1989年には女性画家で三人目となる文化勲章を受章するなど多くの功績を残しています。
従来の日本画とは一線を画す鮮烈な色彩は、球子作品の大きな特徴となっていますが、初期はその異色さから評価されず、両親からも画家になることに反対されていたそうです。しかし時代の流れとともにその独創的な作品は注目されるようになります。代表作である「富士山」シリーズは、現在でも直筆日本画・リトグラフともに高い人気を誇っています。
伊藤 若冲は「動植綵絵」で現代になってから人気が爆発したとてもめずらしい絵師です。
江戸時代中期に京都の青物問屋「桝源」の長男として生まれ、その時は8代将軍徳川吉宗の財政改革(享保の改革)により幕府の財政を立て直し、町衆が文化の担い手となることで、江戸や京で様々な文化が花開こうとしていた活気あふれる時代でした。
若冲は幼少期から優れた画才を発揮し、10代半ば過ぎ頃に狩野派の流れを組む大岡春卜に師事するも中国からもたらされた宗元画にとてもとても強く惹かれ、熱心に模写してその技術を模倣、習得いたしました。20代で家業を継ぐも、絵を描くことが楽しすぎて家業そっちのけで写生を行っていたというまるで幼子のようなかわいらしい一面も覗かせます。
そんな日々の中、博識の大典禅師と出会い画才を認められたことがきっかけで若冲は禅に帰依していきました。
40歳になると次弟に家督を譲って大典禅師が住持であった相国寺へ移り住み、絵師として身を立てる事を夢に日々生活をしていくようになりました。
ほどなくして若冲は独自に磨いてきた画才をいかんなく発揮し、最高級の岩絵具をふんだんに用いて動植物を丹念に描いた花鳥画「動植綵絵」に取組み、50歳になった若冲は「動植綵絵」の内、24幅と「釈迦三尊像」3幅を相国寺へ寄進し、翌年にはさらに6幅を寄進することで若冲畢生の名作「動植綵絵」は完成しました。
とても壮大で時間がかかっている作品ですね。
50代になった若冲は江戸で盛んになっていた版画や、水墨画に才をいかんなく発揮しましたが、70代に好事魔多しで天明の大火によって自宅を焼失したするという不幸に見舞われました。
その後、旧友の木村藼葭堂を頼って大阪へ向かい、不幸に負けずに斬新な構図と華やかさを兼ね備えた「仙人掌群鶏図障壁画」をはじめとする傑作を次々と手掛けていきます。そして、70代後半より世俗を離れて石峰寺の門前に隠棲し、米と絵を交換するという意味の号「斗米菴」を制作後も様々な作品を世に残していきました。
田能村直入は幕末・明治の日本画家であり、南画(文人画)の振興に尽力した人物です。
直入は1814年、豊後国・岡藩(現大分県竹田市)に生まれ、親戚の伝手で南画家・田能村竹田(たのむらちくでん)の画塾に入門します。そしてすぐにその才能を認められ、竹田の養嗣子となりました。絵だけでなく儒学や陽明学、漢詩なども学び、さらには茶道や剣術も身に着けました。師・竹田の没後は詩社「咬菜吟社」を結成し、黄檗宗の居士にもなっています。
明治期には京都を拠点に南画振興に努めました。京都府画学校(現・京都市立芸術大学)の設立に関わり、初代校長も務めました。1896年には富岡鉄斎らと日本南画協会を設立しています。
中国古典の深い知識と、竹田より学んだ南画の技術でつくりあげられる作品の評は高く、日本最後の文人画家と呼ばれます。