与謝蕪村は松尾芭蕉・小林一茶と並び江戸時代における三大俳人に選ばれている俳人です。
与謝蕪村は摂津国(現大阪府)で生まれ、20代の頃に江戸に下り俳諧を学びます。27の頃に俳諧の師が亡くなり下総国(現茨城県)に住みますが、松尾芭蕉の各地を回る行脚生活に憧れて、僧の姿に身を変え東北地方周遊しました。宿代の代わりに絵を置いていく与謝蕪村の修行の旅の始まりです。
42歳の時に京都に居を構え45歳には結婚し娘を授かりますが、51歳の頃に妻と娘を残し、隠岐に赴き多くの作品を残しています。その後は京都に戻り生涯を京都で過ごしました。
与謝蕪村の功績として挙げられるのが俳画です。俳句に絵を入れたもので、俳句と絵に秀でていた与謝蕪村が確立した独自のジャンルになります。有名なものですと「奥の細道図巻」があります。これは松尾芭蕉の奥の細道を書き写し、そこに挿絵を入れた作品です、こちらは重要文化財に認定されています。
画家としての活躍も素晴らしく、1771年に池大雅と合作した文人画「十便十宜帖」は重要文化財に指定されています。この功績も踏まえ、池大雅と共に日本文人画家の祖とも呼ばれています。
池大雅は18世紀に活躍した文人画家です。与謝蕪村と並び日本文人画家の祖や大成者と言われています。池大雅は数多くの名がある人物で、幼名は又二郎など。忌み名は勤や無名(ありな)、字は公敏、貨成。日常生活では池野 秋平。雅号(文人が使う風雅な名)も多く名乗り、大雅堂、待賈堂、三岳道者、霞樵などが知られています。
そんな池大雅は京都で生まれ、父を早くに亡くしたため経済的に貧しい暮らしを送っていました。7歳の頃学び初めの書を万福寺で披露し神童と呼ばれるほど絶賛を受けたという逸話も残っています。
その後柳里恭に才能を見出され文人画を描くようになりました。旅行や登山が趣味だった池大雅は実際に見た景色を描き、中国絵画の模倣ではなく、のびのびとした自分らしい作品画風が確立され一定の評価を得ていきました。
1771年には十便十宜図の十便帖を池大雅が描き、十宜帖を与謝蕪村が描くという合作も生まれた。この中の「釣便」が特に高い評価を得ています。
この時描かれた池大雅作「紙本淡彩十便図」・与謝蕪村作「紙本淡彩十宜図」、1951年6月9日に国宝に指定されています。
中島華陽は、江戸末期から明治にかけて活躍していた絵師です。中島華陽の活躍したこの時代は、従来の狩野派から写実性を取り入れた円山四条派が主流となっている時代でした。そんな時代に、自由な作風と独自の世界観で評価を得ていた横山崋山が中島華陽の師でした。
京都生まれの中島華陽は横山崋山のもとで学び洛東聖護院村に居を構えます。1855年に京都御所再建の際に日本画壇の主流派の画家として障壁画を担いました。その時代の絵師にとって皇居の障壁画を担うことは大変な誉れで、最高の栄誉とされていました。その際に作画された「四季耕作図」は現在も京都御所に飾られています。
中島華陽といえば娘の達が文人画家である富岡鉄斎と結婚したことでも有名です。
1877年に65歳でこの世を去りました。
1836年~1902年 山名 貫義(やまな つらよし)は、現在の東京都千代田区麹町の出身で明治時代に活躍した日本画家になります。明治維新後、工部省、内務省、農商務省に測量技術をもって出仕し、明治10年代の際に再び画道に戻り、1879年古画の模写を嘱託されます。1884年の第二回内国絵画共進会で審査員として加わり、「藤房奉勅訪楠氏図」「獣虫戯図」を出品し銀賞を授与されました。同年創立した鑑画会では、狩野永悳、狩野友信と共に、古画の鑑定委員として参加しておりました。その後、皇居造営の際に杉戸絵等を多数手掛け、当時の「今日新聞」(都新聞)に異なる10の分野において当時最も優れた人物を読者投票で選ぶという「日本十傑指定」の記事では、政治家では伊藤博文、軍師で榎本武揚、学術家で中村正直、著述家で福沢諭吉らと並び、10番目に画家として山名貫義の名が挙げられ,1896年に帝室技芸員となりました。現代ではあまり知られておりませんが、当時貫義は大和絵最後の大家として高く評価された画家になります。1902年6月11日67歳で死去しました。
矢野橋村は愛媛県生まれの大正から昭和にかけて活躍した南画会の重鎮です。
号は知道人、橋村、橋村子明、古心庵、大来山人とあります。
1890年に愛媛県に生まれた矢野橋村は1907年に大阪に転居します。同じく1907年に大阪陸軍造兵廠で働いている際に事故に遭い、左手首を切断する大怪我を負ったことから画家としての道を志していきます。
1909年には南画界にて有名であった永松春洋に師事して画道に励んだとのことです。矢野は衰退の一歩を辿っていた南画を右手一本で描き続け、1914年に文展にて初入選を果たしてからは毎年入選をすることになります。
1921年には日本南画院を設立、1924年には直木三十五や福岡青嵐らと大阪美術学校を設立して同校の校長として戦争で閉校になるまでの間、後進の指導に励んだとのことです。
矢野橋村の作品は中国絵画(元、明、清)に強い影響を受けており、作風、モチーフは中国絵画の伝統を重んじたものとなっております。品格高く美しい作品造りを極めてたどり着いた境地と言える作品が「飛瀑潨然」(1930年)であると言われております。
狩野 尚信(かのう なおのぶ 1607年~1650年)は江戸時代初期の狩野派の絵師です。狩野探幽の弟にあたります。1607年、京都にて生まれます。1623年、徳川家光が上洛した際にお目見えし、家光から絵事を申し付けられます。兄の探幽に続き1630年に江戸に召され、幕府の御用絵師となります。探幽の画風を素早く習得し、大坂城、二条城、聖衆来迎寺、知恩院障壁画の制作で探幽と共に参加し探幽を補佐しました。私生活で見る尚信はふらりと京都に旅行にでたりと自由人な人柄だったと伝えられています。尚信の作風は探幽の画風に大きく学びつつも、探幽以上に湿潤な墨調をもち、自由な性格からか、余白や構図にも探幽を超えるような大胆さを見せる作品が残っています。また不出来な作品は破り捨てていたとう。そのため尚信の現存する作品は少ない。当時は探幽と同程度ほど人気があったにもかかわらず、作品数が少ないため贋作が作られるほどでした。