葛飾北斎と並ぶ江戸の有名浮世絵師・歌川広重。『東海道五十三次』に代表する数多くの作品は江戸庶民から現代に至るまで、多くの人々の心を掴みました。
広重は元々は江戸の定火消に所属する家系でしたが、幼いころから絵に対する興味を持ち、15歳で浮世絵師・歌川豊広に入門します。翌年には歌川広重の名を与えられますが、デビュー当時の号は一遊斎でした。初期は役者絵や美人画が中心でしたが、1828年頃から風景画の制作に着手します。1832年には火消同心の職を親類に譲り、画業に専念することとなります。
1833年、代表作となる『東海道五十三次』の制作を開始。これが大ヒットとなり一躍人気浮世絵師となりました。風景画だけでなく、花鳥画や歴史画、また肉筆画なども多く手掛け、万単位にのぼる作品を発表しました。
また、広重の浮世絵は海外にも渡り、特に欧州の印象派の画家たちに多くの影響を与えています。モネの『睡蓮の池と日本の橋』や、ゴッホによる『江戸名所百景』の模写や『タンギー爺さん』などは非常に有名です。広重の作品自体の人気も高く、現在も国外オークションなどで高値で取引されます。
『冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏』、彼方に見える富士を背景に、そびえ立ち崩れ落ちようとする大波と、必死に耐える小舟の姿。
浮世絵界で最も著名な人物であり、世界的にも有名な浮世絵師・葛飾北斎によって描かれたその作品は、日本文化を代表する一枚として現代でも高い評価を得ており、日常で目にする機会も少なくありません。
浮世絵師・葛飾北斎は生涯を通して制作した多くの作品が、高い評価を受けている一方で、その暮らしぶりは非常に貧しく汚れたものでした。多くの著名人に評価され、庶民の間でも人気を博し、本来なら生活に困ることもないだけの金額を稼いでいますが、金銭に対し無頓着、そして家が汚れたら引っ越すという、絵を描くことにだけ集中した偏った生活が原因であったようです。
しかし、日常生活を顧みずに持てる技能を駆使して描いたその作品は、多くの人の心を掴み、海外の芸術家にまで影響を与えました。
代表作・『富嶽三十六景』の他、『千絵の海』、『北斎漫画』、『肉筆画帖』など多くの作品が存在します。
徹底した写実表現からユーモラスあふれる漫画的な作品まで、幅広い画風で描かれた作品たちは、まさに日本美術を代表する存在といえます。
奇想天外な作品の数々が現代でも人気な歌川国芳。
多岐にわたる奇抜なテーマと迫力ある画面構成は、江戸庶民からも人気を得ており、多くの作品が現代に受け継がれています。
国芳は1748年に江戸日本橋で生まれました。幼いころから絵を描き、15歳でその腕を買われて浮世絵師・歌川豊国に入門します。3年後には国芳の名でデビューを果たしますが、人気はそれほど高くなく、兄弟子の歌川国直のもとに居候する生活でした。
1827年、代表作『水滸伝』シリーズが発表されます。これが大ヒットとなり、通称「武者絵の国芳」と呼ばれるようになりました。
天保の改革が行われ、幕府による人情本の取り締まりが行われるようになっても国芳は屈せず、巧な風刺画で庶民を楽しませ、改革終了後は『宮本武蔵と巨鯨』を発表。その迫力ある作品で多くの人々魅了しました。
しかし、60歳ころから体調を崩し始め、1861年、65歳で亡くなりました。
多くの弟子を育てており、最後の浮世絵師と呼ばれる月岡芳年や、明治になっても活躍した河鍋暁斎も国芳の門弟でした。
国芳は、同時代に活躍した葛飾北斎や歌川広重と並び、日本の芸術文化をけん引した人物といえます。
戦後の日本画壇で、革新的な作風と対象を的確に描く画力が高く評価された日本画家。それが杉山寧です。
杉山寧は1909年、東京浅草に生まれました。東京美術学校日本画科に進学後は、日本画の革新運動にも加わりました。在学中には帝展で入選も果たしています。1933年美術学校を卒業し、34年には第一回日独交換留学生としてドイツ・ベルリンへ渡ります。しかし1938年に罹った肺結核により、療養のため制作活動を中止します。
第二次大戦後m、体調が回復したことで復帰。1947年の日展では特選を受賞。3年後には日展審査員に就任しました。以後は精力的に制作に取り組み、1957年には日本芸術院賞受賞、1974年には文化勲章受章と数々の功績を残しています。また1956年から約30年間、雑誌『文藝春秋』の表紙絵を描いています。1991年には東京都名誉都民にも選出されますが、2年後84歳で亡くなりました。
戦後の作品は従来の日本画にはない題材、古代エジプトや抽象画などを描き、同時代に活躍した東山魁夷や髙山辰雄と並び「日展三山」と呼ばれています。
狩野派絵師でありながら多くの浮世絵も描いた絵師・河鍋暁斎。幕末から明治へと向かう動乱の時代の中で、実力を発揮し、高い評価を得た人気絵師です。
暁斎は1831年に下総(現在の茨城)で生まれました。翌年は家族で江戸に移り、以後江戸東京を活躍の場とし生涯制作を行いました。
1837年、7歳の頃に浮世絵師・歌川国芳に入門。3年後には狩野派絵師・前村洞和に入門しました。既に高い技能を持っていたため修行はわずか9年で修了し、「洞郁陳之」の号を授かります。しかしながら時代は幕末、狩野派絵師の需要は激減し多くの画家たちが困窮しました。浮世絵や戯画の技能を持っていた暁斎は、庶民向けの風刺画などを手掛けたことで、激動の時代を乗り越えます。ですがその政治風刺が原因で、1870年には新政府に捕縛されました。運よく翌年解放され、以前から名乗っていた「狂斎」の号を「暁斎」に変えています。
「暁斎」を名乗るようになってからも変わらず様々な絵を描き続け、1881年の内国勧業博覧会では妙技二等賞牌を受賞しています。この年には、近代日本建築界に多大な影響を与えた建築家 ジョサイア・コンドルが弟子となりました。1887年の東京美術学校開校に際しては、教授としての着任を依頼されますが、体調が優れずに断念。1889年、亡くなります。
生涯にわたり肉筆、版画を問わず多くの絵を描き、現在でもその作品は高い人気を誇ります。
橋本明治は、島根県出身の日本画家です。
明治37年に生まれ、幼少期に祖父の影響を大きく受けて、絵画の道を進みます。
中学校を卒業した翌年の4月に上京。東京美術学校日本画科に入学しました。同期には、明治と共に日本画家の大御所となる東山魁夷や加藤栄三がいました。
在学中に帝展に初入選すると、翌年も連続入選します。そして、東京美術学校日本画科を首席で卒業します。同期の顔ぶれから見ても、大変に秀でた才覚を現していたことがうかがえます。
その後は新しく開催された新文展で特選。そして、翌年も特選に選ばれます。その才能から、博物館より模写の依頼を受け、15年から始まった法隆寺壁画模写では主任を務めます。
日展へ出展する頃には得意とした美人画・風景画だけでなく、女優・司葉子や力士・初代貴の花、松下幸之助といった著名人をモデルにした作品を多数出品して話題となりました。
晩年には、皇居新宮殿正殿の障壁画・出雲大社庁舎壁画共に「龍」を制作します。この作品は明治の画家としての集大成ともいえる大作です。
昭和62年、自作の寄与をしていた郷里の島根県立博物館に「橋本明治記念室」が設立されております。