前田 麻里さんをご紹介いたします。
神奈川県川崎市出身の前田麻里さん。まるでおとぎ話に出てくるような夢のような世界観を独自の技法で描き上げるのが特徴の現代洋画家です。きらめく星空、可愛らしい花と動物、虹や風船、緑あふれる豊かな自然、そして夢見るような少年少女が描かれた作品は、子供たちには夢と希望を、大人には忘れかけていたものを思い出させてくれる物語のような優しさと温かさに溢れています。
そんな前田麻里さんは数多くの賞を受賞しながらも現在も精力的に作家活動をされている為、これからさらに期待される画家です。
簡単に経歴をご紹介いたしますと、1989年に創作画人協会新人賞を受賞したことによって作家としての経歴がスタートしました。その後、1990年に創作画人協会協会賞、受賞。1995年に朝日チューリップ展大賞受賞。1996年に朝日アートギャラリー企画個展画廊協会展出品。1997年に現代具象展出品(~2011年)をはじめ、全国各地で個展を開催。2000年に創作画人協会課題優秀賞受賞。他にも多くの賞を受賞するとともに、テレビなどのメディアへの露出、劇団四季などの舞台や劇場、他様々な団体とのコラボを実現されるなど多くの場面で活躍されています。
前田麻里さんの経歴を追っても分かる通り、今後さらに注目される作家になることは間違いないでしょう。
坂本繁二郎という名を聞いたことがある人、無い人いると思います。
しかし、明治から昭和にかけて活躍した巨匠の1人と言えるでしょう。
坂本繁二郎を語る上で欠かせないのが、若くしてこの世を去った画家・青木繁です。
坂本と青木は同年生まれ、同郷育ちで、青木の影響で坂本は上京し、青木の絵を知人に蒐集するよう促したり、坂本の死後にアトリエから青木のデッサンが発見されたりと、2人の関係はとても深いものでした。
東京への上京と渡仏の経験はありますが、坂本繁二郎はその生涯の大半を福岡の地で過ごします。
坂本繁二郎といえば、やはり『馬』でしょう。
能面や月、様々なモチーフを描きましたが、馬を題材にした作品は多くのファンを生み出しました。
彼の絵は渡仏前後で印象が変わります。
渡仏以前は印象派の風の描き方で筆跡を強調しているのに対し、渡仏後は淡い色調によって表現されていきます。
特に渡仏後に描かれた『水から上がる馬』『放牧三馬』などは代表作と言われます。
坂本繁二郎は九州の福岡を舞台にその自然と生きる馬に魅せられました。
画壇の中心である東京では描けない、その豊かな自然が放つエネルギーを観るものに与える画家。それが坂本繁二郎と言えるでしょう。
クロード・ワイズバッシュはフランスの洋画家です。
1927年。ワイズバッシュは、フランスのティオンビルに生まれました。その後、ナンシー美術学校に学び、版画技術を習得します。1957年には、絵画や版画などを展示した自身初の個展を開催します。この個展を契機に、国際的な評価を受けることとなります。
その後もヨーロッパをはじめとした各地の版画展や絵画展に出品するなど精力的に活動し、高い評価を得るとともに、サント・エチェンヌ国立美術大学で教鞭をとるなど、知識人としても活躍していました。
ワイズバッシュといえば、音楽をモチーフとした作品が印象的です。
ヴァイオリニストやチェリストなどの音楽家が、セピア色を基調としながら鋭い線で動的に表現されているのが特徴です。ヴェートーベンやモーツァルトを愛した彼の感性と情熱が魅力となり、作品に表れているようです。
ワイズバッシュの作品は、パリ市立近代美術館をはじめとした世界各地の美術館に所蔵されています。
高畠達四郎は、大正から昭和期にかけて活躍した油彩画家です。
1895年、達四郎は、東京で生まれました。
1914年に慶応義塾大学理財科(現・経済学部)に入学しますが、画家志望が強まり、二年後に中退。本郷洋画研究所に入社し、本格的に画家の道を進み始めます。
帝展に出品し、入選を掴んだ後の1921年、活動をフランスに移します。7年間の滞仏生活の中でエコール・ド・パリの影響を受けると、帰国した後、国画会にフランスで創作した作品などを含む多くの作品を発表しました。
ですが1930年になると、児島善三郎、林武、中山巍らとともに独立美術協会を創立し、以後、独立展を中心に作品を発表するようになりました。
達四郎の作品は、風景をモチーフとしたものが多いです。暗褐色を基調とし、素朴ながらも詩情豊かに、国内外の風景を描き続けました。静物画的なあるがままの風景の描画が人々の心を掴み、風景画の巨匠として画壇に名を残しています。
尾身周三は、1943年新潟県に生まれ、1960年新宿造形美術卒業後現在まで日本の古民家を中心に描いている油彩画家です。
民家を写実的に20年以上描き続けてその数は数万点にも及び「民家の尾身」と言われています。民家を描き続ける理由として古き良き日本の懐かしい風景へのあこがれがあったそうです。
またこの様な田舎の風景は、土地開発なので無くなってしまう風景です。しかしそれを「仕方ないこと」と割り切りながらも絵画として残されています。
活動としてはNHKなどのテレビで特集され、無所属でありながら5回の受章歴があり、現在も民家を描きながら、都電荒川線沿線の風景など別の風景にも力を入れて精力的に活動されていらっしゃいます。
耳野卯三郎は大正から昭和時代にかけて活躍した洋画家です。
耳野卯三郎は1891年に大阪で生まれます。
画家を目指し1907年に葵橋洋画研究所に入り絵画の技術を学び、その後東京美術学校(現材の東京芸術大学)に入学します。
初入選は1914年の第8回文展で『朝のカフェ』を出品し入選しました。
1916年に東京美術学校を卒業し文展、帝展、日展に出品を続け、1934年に帝展へ出品した『庭にて』が帝展特選の入選を果たしました。
文展、帝展、日展と数多くの場所で活動を続けていた耳野卯三郎ですが、油彩画だけでなく、童画や児童雑誌の挿絵を手掛けたことでも有名です。芸術を通して数多くの場面で活躍したことで耳野卯三郎は各方面から高い支持を集め、現在でもマニアの間では高い支持を集めております。