1883年12月18日~1964年7月15日金山 平三(かねやま へいぞう)は、大正~昭和の時代に活躍した洋画家になります。兵庫県神戸市出身、1905年9月に東京芸術大学の西洋画科本科に入学し、当時主任教授だった黒田清輝らに師事し、1909年3月に首席で学校を卒業しております。その後同校の西洋画科研究科に進みますが、途中で退学し1912年にパリに向かいパリを拠点にヨーロッパ各地を写生旅行に4年間行きました。その後再び神戸へ戻ります。その後文展や帝展等に作品を出品し、1919年に創設された帝国美術院の審査委員を務めたが、1935年帝国美術院改組問題を機に中央画壇から去りました。その出来事が起因して「幻の画家」と評される様になりました。また、雪を描いた作品が多く残っており「雪の画家」とも呼ばれておりました。
絵画家一覧
マリー・ローランサン
マリーローランサン(1883年~1956年)はエコール・ド・パリの中でも数少ないフランスの画家です。エコール・ド・パリとは主にパリに集まった外国人芸術家集団であり、特定の流派はないが文化的・民族的背景を感じさせるものが目立ちます。
優雅な作風で「少女」を描いていることで有名なマリー ローランサンですが、絵を描き始めた当初から少女を描いていなかったそうです。
初めは、ピカソやブラックとの交流から「洗濯船(バトー・ラヴォワール)」に参加したことからその影響を受けた作風となっています。
しかし、パステル調のカラーや曲線的な形態の芸術を追求していくとキュビズムの作風と合わなくなり脱退します。
その後は独特の繊細な色彩や憂いを帯びた少女を描きエコール・ド・パリでも経済的に自立した作家となっていきました。
しかし、第一次世界大戦や結婚したことによる亡命などによって一時期、描く作品はどこか痛みを感じる作品を数は少ないですが描くようになります。
戦後にパリに戻った時には狂騒のさなかであり、マリーローランサンの描く作品は圧倒的な人気を得ることになります。
自身の名声が高まるにつれて描く作品も幸せそうに感じる作品が多くなっていきました。マリーローランサンは生涯ほとんど男性を描くことはなく、女性の美を追求した作品は日本でも人気があります。
織田 廣喜
織田廣喜(1914年-2012年)は福岡県出身の「少女」をモチーフにした作品が有名な画家としてご存知の方も多いのではないかと思います。
幼い頃から父の持っていた蔵書に載っていたゴッホの絵を描くことが好きだった織田廣喜ですが、碓井尋常高等小学校高等科を卒業すると病気を患ってしまった父に代わり、家計を助ける為に陶器の絵付けなどをして働きます。日本美術学校絵画科に入学後は藤田嗣治や林武に師事します。その後は数々の賞を受賞し、1992年に勲四等瑞宝章を受章しました。
織田廣喜は前述の通り「少女」を題材とした作品を主に製作していることで有名です。中でも「赤い帽子」を被っている少女をモチーフにした作品が人気の高くなっております。
デフォルメされた女性像が特徴的で幻想的な作品を多く生み出したのは現実世界をそのまま描くのではなく、「想像し嘘をつく」といったことが絵の製作には必要であると考えた織田廣喜ならではのものです。
西山 翠嶂
西山 翠嶂(にしかま すいしょう)1879年4月2日~1958年3月30日は、大正から昭和にかけて活躍した日本画家になります。京都区伏見区の出身の作家で竹内栖鳳に日本画を学んだ経歴があります。1894年から各展覧会や博覧会で入賞を重ね、同門の西村五雲、橋本関雪とともに栖鳳門下として名を馳せました。努力家でもあり京都市美術工芸学校へも入学し日本画の更なる研鑽に励みました。後に翠嶂は竹内栖鳳の女婿となります。その後、文展、帝展に作品を出品し受賞を重ね1929年には抵抗美術院会員に推薦されるようになり、1937年に帝展が改組された後は帝国芸術院会員を勤めるとともに新文展審査員の職責を果たしました。竹内栖鳳の死後1944年に帝室技芸員に任命され、日本画壇の長老として重んじられました。70代になっても製作を続け、栖鳳の画風を継承した翠嶂の作域は人物、花鳥、動物、風景等に及ぶがその中でも得意としたのが、京都出身ならではの円山派や四条派を範とした人物、動物画になります。翠嶂は、後進の育成にも励み、母校の都市立絵画専門学校で教授および校長を務め、1921年頃自身の画塾「青甲社」を設立し技法を指導しました。輩出者には堂本印象、中村大三郎、上村松篁、森守明等の多くの門弟がおります。晩年には日展運営会理事、芸術院会員選考委員を務め日本美術界の発展に尽力しました。これらの功績により1957年に文化勲章を受章しました。1958年に心筋梗塞により京都市東山区の自宅で死処しました。
寺崎 広業
寺崎 広業(てらさき こうぎょう)1866年4月10日~1919年2月21日 秋田に誕生した寺崎は、幼少の頃父の職業が失敗し祖母によって育てられました。幼い頃から絵を描くことが好きで、その時から優れていたといいます。高校を中退後、素麺業を行いつつ、秋田医学校にも入学したが学費が続かず退学。好きな絵の道へ戻り16歳で手形谷地町の秋田藩御用達絵師だった狩野派の小室秀俊に入門、鹿角に至った時戸村郡長の配慮で登記所雇書記になり、生活はようやく安定したが絵に対する気持ちは少しも変わらなかった。寺崎は、再度放浪の旅へ出て足尾銅山で赴いて阿仁鉱山で知り合った守田兵蔵と再会し、紹介された旅館にお世話になり美人画を書きその絵で名を上げました。その後結婚し初の門下生稲田吾山を迎え入れ1898年に東京美術学校の助教授になった。校長の岡倉天心斥運動がおこり、天心派の広業は美校をやめた。岡倉と橋本雅邦は日本美術院を興し、橋本の門下の横山大観、下村観山らと広業もこれに参加した。1904年の日露戦争の従軍画家となり、そこで経た経験を生かして木版画による、戦争絵、美人画、花鳥画を多く描いております。1912年に文展に出品した「瀟湘八景」が同名の大観の作品とならび評判作となりました。その後、1913年美術学校の日本画主任、1917年に帝室技芸員を命ぜられ、芸術家として斯界の最上段に立つ様になったが病気を患い、1919年54歳でこの世を去りました。
グスタフ クリムト
グスタフクリムト(1862年~1918年)はオーストリアを代表する画家です。
1862年にウィーン郊外の金細工師の息子として生まれたグスタフクリムトは14歳でウィーン工芸美術学校に入学し、絵画を学びながら芸術カンパニーを創立し、皇帝フランツ=ヨーゼフと皇妃の銀婚式を祝う行列装飾や、ブルク劇場のウィーン美術史美術館の壁装画を手がけました。1894年にはウィーン大学大講堂の「法学」、「哲学」、「医学」の天井画の製作依頼を文科省より受けます。しかし、伝統的な様式にそぐわないと批判されて最終的には展示を取り下げました。
1900年代にグスタフクリムトは「黄金様式」を確立させます。黄金様式は金と工芸的な模様と人物を融合させたものです。この黄金様式として代表的な作品が「接吻」です。接吻には黄金の光に包まれるようにして固く向き合う男女が描かれている作品です。
黄金様式はエジプト美術や日本の金屏風に影響を受けた事や代々続く彫金師の家系に生まれていることが黄金様式という独自の作風を生み出していったのではないでしょうか。
ルイ・イカール
アールデコ時代に活躍したフランスの画家、ルイ・イカ―ル(1888年~1950年)。 アールデコとは1910年~1930年代にパリを中心として栄えた装飾様式のこと指します。 アールデコと比較されるものとしてアールヌーヴォー …
前川 強
前川 強(まえかわ つよし)は、前衛芸術グループである『具体美術協会』に属する日本を代表する抽象画家、美術家の一人である。 1959年より具体美術協会の創設者である吉原治良に師事。 織りの粗い麻布(ドンゴロス)で『ひだ』 …
田中 訥言
田中 訥言(たなか とつげん 1767年-1823年)江戸時代後期の絵師です。復古大和絵の祖として知られています。門下には幕末の大和絵師の宇喜多一蕙や尾張国出身の復古大和絵画家の渡辺清などがおります。訥言自身は尾張国名古 …
トーマス・マックナイト
トーマス・マックナイトは、アメリカはカンザス州ローレンス生まれの画家です。 マックナイトはコネチカット州ミルドタウンのウィズリアン大学に通い、芸術を専攻したわずか5人の内のひとりでした。大学を卒業後はコロンビア大学で美術 …
西郷 孤月
西郷 孤月(さいごう こげつ 1873年-1912年)は明治時代に活躍した日本画家です。日本美術院の創設者のひとりでもあります。筑摩県筑摩郡松本深志町(現在の長野県松本市)に生まれる。1886年に小石川餌差町の私立知神学 …
南 桂子
南 桂子(みなみ けいこ 1911年2月12日-2004年12月1日)富山県射水郡出身の版画家です。詩的な作品が特徴的な画家です。南は生まれてすぐに母親を亡くしており、12歳の頃には父親が急死したために若くして親族によっ …
清水 達三
清水達三は、人物画を得意としている日本画家で1936年に和歌山県で生まれました。美人画で有名な中村貞以に師事し絵を学び、1963年に人物画で院展入選を果たし画家として活動を始めます。 しばらく人物画を描いていましたが、風 …
高橋 天山
高橋天山は東京都出身の日本画家です。1979年に東京造形大学を卒業します。油彩画より日本画に転向し、院展常任理事・今野忠一に師事します。1999年には日本美術院同人に推挙されます。2008年に雅号を高橋天山としています …
奥田 元宗
奥田元宗は 1912(明治45)年、広島県双三郡八幡村(現在の三次市吉舎町)に生まれます。小学校4年生の頃から、図画教師であった山田幾郎教諭の影響で絵を描き始める。1930(昭和5)年に上京し、同郷の日本画家・児玉希望 …
後藤 純男
後藤純男は昭和5(1930)年、千葉県東葛飾郡関宿町(現野田市)で真言宗豊山派住職の子として生まれます。昭和27(1952)年の再興第37回日本美術院展覧会(院展)初入選を皮切りに、昭和61年内閣総理大臣賞、平成18年 …
平松 礼二
平松礼二は1941年に東京都中野区に生まれた日本画家です。 愛知県立旭丘高等学校美術科、愛知大学法経学部卒業。 横山操に私淑し、1960年より青龍社展に出品します。 その後、個展を開催し、様々なコンクールに出品して多数の …
田渕 俊夫
日本画家・田渕敏夫は東京都江戸川区出身です。1965年、東京藝術大学美術学部日本画科卒業します。1967年、同大学大学院日本画専攻修了。師系は平山郁夫となります。1968年、再興第53回日本美術院展覧会で初入選し、19 …
木村 圭吾
木村圭吾(きむら けいご)は、昭和十九年(1944年)に京都府京都市深草に生まれた日本画家です。中学時代から画家を志し、山村眞備に師事して日本画の基礎を学びました。その後、京都市立日吉ヶ丘高等学校日本画科を卒業し、さらに …
堀 文子
堀文子は東京都出身の日本を代表する女流画家です。画家を志して、女子美術専門学校(現・女子美術大学)に入学し、在学中から新傾向の日本画制作を実践する新美術人協会展に出品します。戦後も創造美術、新制作協会日本画部、創画会へ …
倉島 重友
倉島重友は1944年、長野県に生まれの日本画家です。1971年、東京藝術大学大学院美術研究科を修了します。1971年、再興第56回院展で初入選したのち平山郁夫に師事します。1974年には高松塚古墳壁画模写に参加します。 …
後藤 順一
後藤順一は1948年生まれで京都府出身の日本画家です。少年の頃から画家を志し、京都市立芸術大学に入学します。日本画を専攻して大学院まで進み、1973年に卒業します。その翌々年には沖縄海洋博に作品を発表し、作家デビューを …
松尾 敏男
松尾敏男は「花の松尾敏男」を称された花鳥画にて有名な作品が多い日本画家です。 1926年に長崎県に生まれた松尾敏男は東京府立第六中学校に在学中は体操選手であったが画家を志したことから同じく花鳥画に優れた作品を多く残した堅 …
岩沢 重夫
大分県日田市豆田町に生まれの日本画家・岩沢重夫は幼少の頃は、学校に行く前に魚釣りのに行くほど川が大好きな少年でした。晩年の水辺に緑の山や季節の花を描いた小品を制作しましたが、それは全て魚釣りをするときの視点に基づいて …
下保 昭
下保昭は昭和から平成時代の日本画家です。下保昭は、昭和2年に富山県砺波市で誕生しており、昭和24年には西山翠嶂の師事し、さらには日展で活躍しています。また、昭和45年には日展常議員に選定されており、昭和57年には日本芸 …






