戦後日本の洋画界において、その独特な美人画で存在感を示した画家・東郷青児。対象を大きくデフォルメし、淡い色彩と柔らかな輪郭線で描かれる女性像は、従来の美人画の常識を大きく崩すものでした。
東郷青児(本名・鉄春)は1897年、九州・鹿児島に生まれ、間もなく家族で東京へ引っ越します。1914年、青山学院中等部を卒業後、日本橋に画家・竹久夢二が開いた書店で、下絵描きなどの仕事をしていました。同じころ、画家の有島生馬と知り合い、以後有島から絵を学びます。1916年の第3回二科展にて二科賞を獲得するなど、若くして高い技術を持っていました。1921年から7年間、フランスへ渡り、装飾デザイナーとして働く一方で、多くの西洋美術を目にします。帰国後の1931年には二科会へ入会し、以後中心人物の一人となります。
戦後は1957年に日本芸術院賞を受賞し、61年には二科会の会長に就任しました。1976年には新宿に東郷青児美術館が開館しますが、1978年、熊本滞在中に亡くなります。
東郷の描く、伏し目がちでどこか物憂げな表情を浮かべる女性像は、当時の日本社会に大きなインパクトを与えました。その人気の高さから、本の表紙や雑貨品などに採用されることも多く、多くの人々が親しむ作品となったのです。
難波田龍起は日本を代表する抽象画家です。画家としての道を歩み始めたころは具象絵画を描いていましたが、第二次大戦以降、抽象画を描くようになりました。
詩作が得意であったことから、彼の作品にはその抽象的な世界に、詩作の精神が垣間見える独自の表現となっています。1970年代以降の作品には、「群像」のイメージが取り入れられるようになりました。交錯する細い線と画面を彩る色彩が特徴となっています。
亡くなる直前、病床でも筆をとり続けるなど、70年以上精力的に制作に取組み、残された数多くの作品は20世紀を代表する抽象画として、今なお人気となっています。2005年には東京オペラシティ アートギャラリーにて、生誕100年記念展も開催されていました。
平賀敬は日本のコンテポラリーアート(現代美術)の先駆者といえる画家です。
平賀は1936年に東京で生まれ、幼少期は盛岡で過ごしました。家で飾られていた萬鉄五郎や松本竣介の絵に影響され、自身も画家になりたいという思いを持つようになります。大学は立教大学経済学部を卒業しますが、その後は画家の道へ進み、1964年の第三回国際青年美術展にて、大賞を受賞しました。翌年渡欧し、1974年までフランスに滞在し、制作活動に没頭します。また欧州各地の作品展に出品も行いました。帰国後は日本でも個展の開催や、作品展への出品などを行っています。
平賀の描く前衛的な作品は、見る者を飲み込むような怪しさ、そして時には人間の持つエロチックさまでも写し出しています。時には日本的な意匠、モチーフを取り入れることもありますが、そこには彼なりのユーモアがあふれていると言えるでしょう。
篠田桃紅(本名・満洲子)は、100歳を越えてもなお活躍し続けている抽象画家です。その作品は、墨で描かれる水墨の抽象画という斬新な作風が特徴となっています。
1913年、当時日本の管理下にあった中国・大連で生まれ、一年ほどで日本に移り、その後は東京で暮らしています。しかしながら父の出身地である岐阜の文化にふれることも多く、「岐阜は心のふるさと」と考えているそうです。初めて筆をとったのは6歳のときで、漢学に精通している父から中国古典などを学びます。女学校卒業後は自らも書の指導を行ったり、個展を開催したりしますが、二次大戦後、書という枠を越え、抽象的な作品を制作するようになりました。
1956年、日本を離れアメリカに渡ります。当時、抽象画が流行していたこともあり、桃紅の作品は東洋の墨による新しい芸術として、高く評価されました。2年後に帰国すると、国内の有名施設に作品を描いています。
漢字の形を崩し、自由に描くようになったその作品は、文字としての意味に拘らず、視覚に訴える造形となっています。水墨の抽象画という新たな日本美術。その作品はときに「墨象」と呼ばれます。
ヒロ・ヤマガタ(本名・山形博導)は、現在アメリカを拠点に活躍している、現代美術家です。日本国内で人気の高いシルクスクリーン作品の他に、空間全体が作品となる「インスタレーション」と呼ばれる形の作品も制作しています。
1948年に滋賀県米原の材木商の家庭に生まれ、高校生時代には多くの公募展で作品が入賞するなど、その才能は早くから現れていたようです。卒業後の1967年に上京し、間もなく広告会社へ入社しました。しかし、1972年突如として渡欧し、そのままパリに移住します。翌年、パリの画廊と契約を結んだことがきっかけとなり、欧州各地で個展を開催するようになりました。
転機となった1978年、アメリカ・ロサンゼルスの画廊と契約し、移住します。ヤマガタの代名詞ともいえるシルクスクリーン作品の制作は、このとき始められました。この作品がアメリカで非常に高く評価され、その名は瞬く間に有名になりました。その後はアメリカ各地や祖国・日本、ヨーロッパなど、世界各地で個展を開いています。また、オリンピックやホワイトハウスといった著名な機関からも制作を依頼され、公式ポスターや記念絵画、切手などのデザインも行っています。慈善事業家としての活動も行っており、自身の作品の売上を赤十字や障がい者支援団体へ寄付するなどの社会貢献にも積極的です。
人気の高いシルクスクリーン作品は、版画ながら100色以上の色で彩られ、とても鮮やかで、遊び心にも溢れた明るい作品となっています。なかでも爽やかながら深みのある青色は「ヤマガタ・ブルー」と呼ばれ、ヤマガタの代名詞といえる色となっています。
東京の街を放浪しながら絵を描いた画家、長谷川利行。大胆ながら均整のとれた作品は、現在非常に高い評価をうけています。
長谷川は1891年、京都に生まれたとされていますが、正確な年月日は定かではありません。当初は画家ではなく、詩人や歌人を目指していたようです。1921年に上京し、間もなく独学で絵を描き始めます。その制作スタイルは非常に独特で、一般的な画家のように自宅にアトリエを構えたりせず、街中を歩きまわって題材を探し、決まるとその場に画材をひろげ、目にもとまらぬ速さで描き上げるというものでした。しかし、わずか1,2時間程で完成した油絵は、対象の特徴を確実に捉え、迷いのない線は的確に、その姿かたちをキャンバスへと写しています。
放浪生活は非常に荒れたもので、日頃は絵を描くか安酒を飲むかという生活を送り、友人らに作品を押し売りして日銭を稼いでいました。ときには著名人の自宅に押しかけて、頼まれていない肖像画を描いて金を要求したこともあったようです。
そんな長谷川ですが、その作品の評価は以外にも、当時からそれほど低くはなかったようです。1923年の新光洋画展や1926年の二科展・帝展では入賞し、新宿の天城画廊にて個展を開催したこともあります。晩年には水墨画を描いたこともあるようです。
しかし長い放浪生活と過度な飲酒で体を壊し、1940年、ついに路上で倒れます。養育院に収容されるも、胃がんと診断され、回復することなく、同年秋に亡くなりました。
当時の洋画の常識に左右されない自由な作品は、現在でも非常に人気が高く、各地で回顧展が開かれている他、国立近代美術館で購入・収蔵されている作品もあります。