絵の中からこちらを見つめる一匹の青い犬。ジョージ・ロドリーゲの「ブルードッグ」を持つ者には成功が訪れる。そんな噂からついた通称は「幸運のブルードッグ」。いまや世界中にファンを持つその絵を描いたのは、亡き愛犬に思いを馳せる一人のアメリカ人画家でした。
ジョージ・ロドリーゲは1944年、アメリカ・ルイジアナ州のケイジャンカントリーと呼ばれる地域に生まれました。幼少期に小児麻痺を患いほぼ寝たきりとなった彼は、母から粘土と絵具を与えられたことをきっかけに、芸術家を目指すようになります。ルイジアナ大学などでアートを学んだ後は広告代理店で働いたこともありますが、間もなくアーティストとしての活動に専念します。故郷の伝統文化や神話を題材とした彼の作品は、高い評価をうけ数々の賞を受けました。
しかし1985年頃、長年ともに過ごした愛犬・ティファニーが死んでしまいます。もう一度会いたいと思った彼が夢にみた、月明かりに照らされ青く浮かびあがるティファニーの姿。4年後、彼は「ブルードッグ」シリーズの制作を開始します。様々な背景で描かれる「ブルードッグ」それは彼と愛犬の旅の物語でした。
この作品もたちまち人気となり、ときにはアメリカ大統領から国賓へのプレゼントにも選ばれました。その人気は日本にも伝わり、1995年には南青山に「ザ・ブルードッグ・ギャラリー」がオープンしています。
葛飾北斎と並ぶ江戸の有名浮世絵師・歌川広重。『東海道五十三次』に代表する数多くの作品は江戸庶民から現代に至るまで、多くの人々の心を掴みました。
広重は元々は江戸の定火消に所属する家系でしたが、幼いころから絵に対する興味を持ち、15歳で浮世絵師・歌川豊広に入門します。翌年には歌川広重の名を与えられますが、デビュー当時の号は一遊斎でした。初期は役者絵や美人画が中心でしたが、1828年頃から風景画の制作に着手します。1832年には火消同心の職を親類に譲り、画業に専念することとなります。
1833年、代表作となる『東海道五十三次』の制作を開始。これが大ヒットとなり一躍人気浮世絵師となりました。風景画だけでなく、花鳥画や歴史画、また肉筆画なども多く手掛け、万単位にのぼる作品を発表しました。
また、広重の浮世絵は海外にも渡り、特に欧州の印象派の画家たちに多くの影響を与えています。モネの『睡蓮の池と日本の橋』や、ゴッホによる『江戸名所百景』の模写や『タンギー爺さん』などは非常に有名です。広重の作品自体の人気も高く、現在も国外オークションなどで高値で取引されます。
全国を放浪した画家・山下清。裸の大将としてドラマが大ヒットした影響で、全国的にその知名度も高い人物です。
山下清は関東大震災の前年に東京・浅草に生まれます。震災後の避難先で生死の狭間をさまよったときの影響で、軽い言語障害と知的障害の後遺症が残ってしまいました。
1934年、千葉の養護施設・八幡学園に入園した清は、ちぎり紙細工に出会います。その才能を開花させ、1938年には銀座の画廊で初めての個展を開催しました。
しかし、1940年突如として学園から姿を消し、放浪の旅へと出ます。こうして目にした風景の数々が後に清の題材となりました。1950年代にはその知名度も上がり、「日本のゴッホ」「裸の大将」と呼ばれるようになりました。全国で個展も開催され、当時の皇太子殿下も訪れています。1961年にはヨーロッパも旅行しました。
晩年は東海道のスケッチ旅行や、放浪中に住み込みで働いていた我孫子弥生軒の、弁当掛け紙のデザインを行っています。
1971年、49歳で亡くなりました。
作品は代表的なちぎり紙細工の他に、旅先で描いたペン画などが存在します。色鮮やかな紙細工、点描を駆使してその場の風景を切り取ったペン画は、現在でも高い人気を誇っています。
しかし一方で人気の高さや、ドラマにおいて旅先で絵をプレゼントする姿が影響してか、非常に多くの贋作が存在します。特に紙細工は旅先ではほとんど作らず、残されている作品の多くは遺族の方々によって保管されています。
残雪を頂き陽光に照らされる浅間山。時には日没間近の夕日に輝き、時には力強く噴煙を上げる。そんな四季折々の浅間山の表情を描いたのが、長野県小諸市の洋画家・小山敬三です。
敬三は1897年、長野県の小諸町(現・小諸市)に生まれました。上田の旧制中学校卒業後は、慶応大学の予科に進みますが、画家になるという夢を叶えるために中退。川端画学校で画壇の重鎮・藤島武二より洋画を学び、1918年には二科展で入選となるなど、徐々にその才能をあらわし始めます。
1920年、小説家・島崎藤村に勧められフランスへ留学。パリでポスト印象派の画家であるシャルル・ゲランに学びます。1922年にはフランスのサロン・ドートンヌにて初入選を果たし、その後会員となりました。
帰国後は春陽会や二科会に参加しますが、1936年これらを脱し、有島生馬、安井曽太郎などと共に一水会を結成しました。
戦後は一水会や日展に出品を重ね、1959年に日本芸術院賞を受賞しています。翌年には日本芸術院会員、日展理事となりました。1975年には文化勲章を受章しています。
文化勲章受章と時を同じくして、建築家・村野藤吾に依頼し美術館を建設。故郷の小諸市に自らの作品と共に寄贈し、「小諸市立小山敬三美術館」として開館しました。
『冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏』、彼方に見える富士を背景に、そびえ立ち崩れ落ちようとする大波と、必死に耐える小舟の姿。
浮世絵界で最も著名な人物であり、世界的にも有名な浮世絵師・葛飾北斎によって描かれたその作品は、日本文化を代表する一枚として現代でも高い評価を得ており、日常で目にする機会も少なくありません。
浮世絵師・葛飾北斎は生涯を通して制作した多くの作品が、高い評価を受けている一方で、その暮らしぶりは非常に貧しく汚れたものでした。多くの著名人に評価され、庶民の間でも人気を博し、本来なら生活に困ることもないだけの金額を稼いでいますが、金銭に対し無頓着、そして家が汚れたら引っ越すという、絵を描くことにだけ集中した偏った生活が原因であったようです。
しかし、日常生活を顧みずに持てる技能を駆使して描いたその作品は、多くの人の心を掴み、海外の芸術家にまで影響を与えました。
代表作・『富嶽三十六景』の他、『千絵の海』、『北斎漫画』、『肉筆画帖』など多くの作品が存在します。
徹底した写実表現からユーモラスあふれる漫画的な作品まで、幅広い画風で描かれた作品たちは、まさに日本美術を代表する存在といえます。
奇想天外な作品の数々が現代でも人気な歌川国芳。
多岐にわたる奇抜なテーマと迫力ある画面構成は、江戸庶民からも人気を得ており、多くの作品が現代に受け継がれています。
国芳は1748年に江戸日本橋で生まれました。幼いころから絵を描き、15歳でその腕を買われて浮世絵師・歌川豊国に入門します。3年後には国芳の名でデビューを果たしますが、人気はそれほど高くなく、兄弟子の歌川国直のもとに居候する生活でした。
1827年、代表作『水滸伝』シリーズが発表されます。これが大ヒットとなり、通称「武者絵の国芳」と呼ばれるようになりました。
天保の改革が行われ、幕府による人情本の取り締まりが行われるようになっても国芳は屈せず、巧な風刺画で庶民を楽しませ、改革終了後は『宮本武蔵と巨鯨』を発表。その迫力ある作品で多くの人々魅了しました。
しかし、60歳ころから体調を崩し始め、1861年、65歳で亡くなりました。
多くの弟子を育てており、最後の浮世絵師と呼ばれる月岡芳年や、明治になっても活躍した河鍋暁斎も国芳の門弟でした。
国芳は、同時代に活躍した葛飾北斎や歌川広重と並び、日本の芸術文化をけん引した人物といえます。