上村松篁は日本画の巨匠である上村松園を母に持ち、上村松篁も花鳥画の最高峰と言われた作家です。
京都に生まれた上村松篁は、幼いころより母・上村松園が絵を描いていたことも影響して自然と画家を志すようになります。しかし、松園は絵を描くところも絵の手ほどきをすることもなかったそうです。ただ、松園が骨董屋が持ってくる商品を見定めているのを見聞きして、松篁は品の高い物などを見分ける実力をつけていきました。
松篁は花鳥一筋で絵を描いておりますが、そのルーツとしては松篁が6歳の時に見た、鳥かごから鳥が一斉に飛び出す様子がとても美しく映ったことであり、その後はどんどん花鳥の魅力に惹かれていきます。
その後は母・松園が格調高い女性像を一筋で追い求めたように、松篁も格調高い鳥の絵を追い求めました。
リアリズムに影響を受け、写実的なものの中に美しさを追い求めて日々スケッチを繰り返したり、アトリエの中に鳥小屋を設けて280種類もの鳥を飼育して花鳥の美を追い求めた上村松篁の作品は、今も人気の高いものとなっています。
昭和初期から平成にかけて活躍した日本画家の一人に上田臥牛という方がいます。
1920年に兵庫県に産まれた上田臥牛は川端画学校を卒業後に小林古径に師事し、端正かつ清澄な画風を学んでいました。
その後、1950年代にアンフォルメルという新しい美術動向が入ってきたことに洗礼を受けて画風が変わっていきます。
アンフォルメとは第二次世界大戦後にフランスを中心に起こった抽象画の運動であり、すべての定型を否定して色彩を重んじて激しい表現を行うものです。
この運動は1950年代から1960年代に国際的な広がりをみせ、多くの芸術家や批判家に影響を及ぼしました。
その影響からか1961年にはグループ62層を設立し、「巖A」や「巖B」といった抽象的表現を発表していきます。
その後は現代日本美術展、日本国際美術展、朝日秀作美術展にも出品していき、日本画における独自の画風を追求し続けて日本画壇に新たな作風を吹き込むことに尽力していきました。
戦後の激動の時代に日本画の独自の追及を続け、日本画壇に新たな新風を吹き込もうと尽力した上田臥牛の作品は今も人々を魅了していることでしょう。
滋賀県出身の画家で有名な人物といえばなんといっても小倉遊亀でしょう。
小倉遊亀は女性初の日本美術院理事長となってり105歳でお亡くなりになるまで精力的に絵を描き続けた情熱は多くの人を魅了しました。
小倉遊亀の作品は身近なものを題材にした人物画や静物画を多く描いております。代表作としましては「径(こみち)」でご存知の方も多くいらっしゃることかと思います。この作品は小倉遊亀が71歳の時の作品であり、母親の後ろを歩いていく子供と犬がほほえましく描かれているなんとも小倉遊亀らしい作品といえるでしょう。
代表作の「径(こみち)」からも小倉遊亀は日常の身近なものを描くことで近代的な表現が明確に打ち出されていると感じることができます。
小倉遊亀の郷土である滋賀県の滋賀県立近代美術館には小倉遊亀の作品が60点ほど展示されているそうですので、小倉遊亀の作品をたくさんご覧になりたい方がいらっしゃいましたら足を運んでみてはいかがでしょうか。
点描で描きだされるヨーロッパの古城。二科会の巨匠、西村龍介が好んで描いた画題です。
西村は1920年、山口県小野田市に生まれました。上京したのは1936年のことで、2年後に東京美術学校に入学しました。このとき入ったのは洋画科ではなく日本画科で、以後しばらくは日本画を描きます。1941年、美術学校卒業後はそのまま出征。1945年、特攻隊員として出撃する直前に終戦となりました。戦後は故郷山口で画業に取り組み、1946年には山口の百貨店で個展を開催しました。
1950年、ふたたび上京し、背景画の仕事などで何とか生活しました。このとき日本画から手軽に描ける油彩画に転向します。1954年の二科展で初入選を果たし、その後も二科展への出品を続け、1959年には金賞を獲得しました。1964年には初めて渡欧し、欧州各国を巡ります。このときその後の画題となる城や聖堂の風景に出会いました。帰国後の1971年二科展ではついに内閣総理大臣賞を受賞しています。
日本画と洋画の技法の巧みな組み合わせが評価され、1989年には芸術選奨文部大臣賞を受賞します。2000年の二科会退会後も制作を続けますが、2005年亡くなりました。
常に新しい絵を追求し続けた洋画家、猪熊弦一郎。具象画から抽象画、ときには大型の壁画まで様々な作品を描き続けた昭和日本を代表する人物です。「絵を描くには勇気がいる」という言葉を口癖にしていた彼は、その勇気で常に新しい挑戦をしていました。
1902年、香川県高松市に生まれ、幼少期は丸亀市で過ごします。幼い頃より絵が得意で、旧制中学校卒業後は東京美術学校の洋画科に進みました。小磯良平や荻須高徳らと共に藤島武二の指導を受けます。在学中には第7回帝展にて『婦人像』が初入選を果たしますが、体調を崩したことから美術学校は中退しています。その後は帝展や光風会展で作品を発表し、第10回帝展では特選を獲得しています。
1936年、新文展と対立したのがきっかけとなり、小磯良平・佐藤敬などと共に新制作派教会を設立し、作品発表の場とします。1938年には渡欧し、フランスにてフォービスムの画家、アンリ・マティスに師事します。この時期には洋画家・藤田嗣治と同じアトリエで製作を行ったこともあります。第二次大戦中は日本へ戻り、欧州で学んだモダニズム絵画で画壇を牽引する存在となりました。間もなく陸軍省派遣画家として外地に赴き、戦場を描いています。
戦後は海外の美術展でも発表を行うようになりました。1950年には三越百貨店の包装紙をデザイン。翌年には国鉄(現・JR)上野駅中央改札の壁画制作などを手がけています。1955年、アトリエをニューヨークに移し、画風もモダニズムから抽象へと転向しました。1973年に体調を崩してからは冬はハワイ、それ以外の季節は日本で過ごすようになりました。1991年には幼少期を過ごした丸亀市に「猪熊弦一郎現代美術館」が開館しました。
池田満寿夫は、1934年生まれの昭和を代表する作家・芸術家です。
1980年代にテレビなどのメディア出演を多くしていたことからご存じの方も多いかと思います。池田満寿夫を一躍有名にしたのは、芥川賞を受賞した「エーゲ海に捧ぐ」ではないでしょうか。
文学の他にも彫刻や陶芸、映画監督などとマルチな才能を発揮しておりますが、その中でもやはり画家としての一面は、官能的な「池田芸術」が前面に押し出たものが多く、国際的にも親しまれています。
そんな池田満寿夫は数多くの作品を輩出しており、制作した版画は1000点余り、陶芸作品は3000点を超えるとみられています。版画は絵画作品の中でもかなり力を入れられており、木版やシルクスリーン、リトグラフなどを制作していますが、中でもドライポイント技法による銅版画は高い評価を得ております。
池田満寿夫の官能的な芸術世界は、深層意識を駆り立てるような不思議な魅力を感じられます。機会がございましたら、是非一度ご鑑賞ください。