慶入 (十一代楽 吉左衛門)

慶入は京焼の名跡・樂吉左衛門の十一代であり、歴代吉左衛門の中でも多くの作品を制作し、現代にも数々の作品が残っている作家さんです。

江戸時代末期に生まれ、それから明治にかけての激動の時代を慶入は生きました。徳川家の衰退により茶道が軽んじられていた時代でもあり、千家とのつながりが深かった楽家にも風当たりは強くありました。しかしながら慶入は、世事についての反応を示さず、自分らしい作陶を続けます。そんな慶入の心が見て取れるおおらかな作品が多く残っています。

楽家といえばノンコウと呼ばれている三代・道八が稀代の名工として知られており、ノンコウを敬慕していた慶入もまたノンコウを思わせる作品をしました。またそこに留まらず、三代以降の楽家が作り上げてきた研鑽も糧としながら型に縛られない斬新で自由な作品も制作しました。

楽と言えばやはり茶碗が想起されますが、慶入は茶碗に限らず幅広い作品を残しております。これは時代のお茶離れに合わせ、様々な道具を作ることで生計を立てていたからだともいわれています。
楽の伝統を継ぎながら、個性ある作風を持つ慶入の作品は多くの茶道具ファンから支持を集めております。

奥村 吉兵衛

表具師として千家十職に名を連ねる奥村吉兵衛は江州(滋賀県)の武士の家系であったが京へ上り、正保3年(1646年)母方の家業の表具師を継いだ。承応 3年(1654年)に表具屋業を開業。屋号を「近江屋吉兵衛」とした。吉兵衛とは奥村家の当主が代々名乗る名で、千家とのつながりは二代になってから、元禄11年(1698年)表千家六代覚々斎の取りなしで、紀州徳川家の御用を務めるようにもなった。

表具師は主に紙の茶の湯道具、掛け物(掛け軸)や風炉先(屏風)、釜の敷物の一種である紙釜敷などを製作する。表具とは茶道における背景の役割を担っている物であり、道具や装飾などにこだわりお客様をもてなす茶道においては、表具の役割は必要不可欠なものといえる。

表具はその性質上単体での作品というものはほとんどなく、著名な作家の掛軸を着飾っていたりするものなので、奥村吉兵衛の作品であるというのも気づかれることが多くはありません。「主役はあくまでも本紙であり、表具は中身を引き立てこそすれば絶対に目立ったらいけない」これは当代である12代奥村吉兵衛の言葉で、目立つことなく主役を引き立てることで調和する表具と茶道の本質を言い表している言葉です。

前田 昭博

前田昭博は「白磁」で国の重要無形文化財に認定された陶芸家です。
1954年に鳥取県に生まれた前田昭博は、小学校2~3年生の際に学校の教員をしていた父が木版画を始め、その後ろ姿を見てモノを夢中になっているところがうらやましいと感じるようになり、その頃から図画工作が好きになり、高校では美術部に入り、大阪芸術大学に進学後は陶芸専攻するようになりました。大学では先生が大きな土の塊と格闘していることに感動をし、そこで白磁を初めて制作し、その白さに感動したとのことです。大学を卒業後は、故郷である鳥取県にて納屋を改造して窯を築き、作陶を初めていきました。
その後は1979年に日本陶芸展に入賞したことを皮切りに数々の賞を受賞し、その功績が称えられ、2007年には紫綬褒章を受章、2013年には「白磁」にて国の重要無形文化財に認定されました。
前田昭博の作風として簡素的でありながら形の美しさや存在感と品格を意識した作陶により今後も人々を魅了し続けるのではないでしょうか。

飛来 一閑

一閑張細工師を生業とする飛来家の祖は,中国の出身で中国の動乱期に清の進行を避けるため日本に亡命しました。中国では学者として過ごしていた一閑は古代中国技術である乾漆工芸の印可を受けた技術者でもありました。そんな一閑は大徳寺に参禅し大徳寺の和尚を通じて千家三代拙々斎と出会います。そこで趣味として作成していた漆細工が認められ、千家を出入りするようになります。

千家との出会いは日本の「侘茶」との出会いでもありました。侘茶に触れた一閑は、自分が持っている中国の技術を日本の和紙を使い作成する一閑張細工を確立しました。一閑張細工によって作られた茶道具は千家の馴染みとなり、正式に千家から茶道具づくりを依頼されるようになりました。

後に3代一閑の時代に家業として飛来家が始まり、4代の時代に表千家6台覚々斎の御用細工師になったり茶道業界の中でも広く知られるようになりました。

民衆の間でも一閑張細工は広く普及しており、その要因となったのは2代の時代で、実は2代の時代に飛来家は分家しており、千家の茶道具を作る飛来家と生活道具を作る泉王子家が生まれています。この泉王子家の活躍によって民衆の間でも広く普及しました。

一閑張細工の特徴は、原材料が日本の和紙を使用しているので軽く、さらにはとても丈夫なことです。現代においても軽く丈夫なものは重宝される傾向にありますが、江戸時代の頃にそんなものが作られれば広く普及するのも納得できます。しかしながら一閑張細工の古い作品は現代ではあまり残っておりません。その理由としては、徳川家の衰退とともに手放されてしまったり、6代から8代にかけての後継者の早死、9代が家業復興に尽力するも大火に見舞われるなど、多くの不幸が重なってしまったことが挙げられます。中でも一番の不幸は、現代期に全国の蔵から出てきた一閑張細工が軽さ故にプラスチックと勘違いされ廃棄されてしまったことです。これは一閑張細工が現代に広く普及したプラスチックと同じくらい軽く丈夫であった事の証明でもありすごい事であると同時に、一閑張細工の古い作品があまり残っていない悲しいお話です。

土田 友湖

土田家の祖先は元々武士の家系で初代彦根藩主 井伊兵部大輔直政に仕官し、鉄砲組頭を務めていた家系と伝えられています。後に土田家の初代となる土田友湖は、本来家督を継ぐ予定であった実母が早くに亡くなったため、家督を継母の子に譲り武士を廃業することとなりました。

廃業後は京で商人となり西陣の仲買をしていましたが、近隣に住む袋師・亀岡家に通い袋師の技術を学びました。元々器用だったこともあり、亀岡家三代 亀岡宗理に認められ奥義秘伝一切を伝授されます。

その後、師である宗理が藤堂家の茶頭になり、家業のすべてを土田友湖に譲ったことで、袋師土田家が始まることとなりました。さらに表千家六代 覚々斎に引き立てられ、茶道の千家に指定された茶道具類をつくる世襲の家柄、「千家十職」として千家に出入りするようになりました。

武士の家系から商人となり、商人から袋師へと数奇な過程で袋師となった土田家ですが、千家十職に加わるなど素晴らしい評価を得られているのは、確かな技術があったことを裏付けています。

袋師の仕事というのは、茶道における袋に関することの一切を担います。茶入れの仕服・帛紗に始まり・染帛紗・茶壷飾り紐・敷絹・糸組物など他にも上げればいくらでも出てきます。茶道における袋はそれほどまでに大切なものであり、密接なものなのです。地味に感じてしまう袋師という仕事は、茶道における道具を包むものとしての役割だけでなく、当たり前にあるものだからこそ違いを生むアクセントになることができるものなのです。

大西 清右衛門

1500年代後半から400年以上続く窯氏の家系、大西家の当主の名が清右衛門です。清右衛門という名は世襲制の名で大西家4代当主大西浄頓以降に、9代大西浄元を除き代々襲名しています。現在の当代は16代大西清右衛門です。

大西家の始まりは、山城の国・南三城広瀬村(京都府唯一の村)で生まれた家祖浄林が京に上洛し、三条釜座の座人になったことで始まりました。

その後の大西家の発展に貢献したのが、家祖浄林と共に上洛していた弟浄清です。浄清は後に大西家きっての名人とうたわれるほどの技量で、その技量を高く評価され、千利休の高弟で織部流開祖の茶人、古田織部に仕えることとなりました。江戸時代になり2代目浄清は幕府御用釜師としてお抱え職人となり、三代目定林が江戸に定住したことで江戸大西家が始まりました。

6代目浄元の時代には、茶道の千家に指定された茶道具類をつくる世襲の家柄、「千家十職」として正式に千家に出入りするようになりました。この頃の作品は時代的に「わび茶」が定着し、千家流の茶道として「わび茶」に向いた釜が多く作られました。

大西家の釜は、時代に合った作品を求められながらも、代々引き継がれている確かな技術力と、遊び心を思わせる親しみが感じられます。

野々村 仁清

野々村仁清は生没年が不明などわからないことはいくつかあるのですが、生まれは丹波国(京都)野々村と伝えられており、本名は清右衛門といいます。 京都の粟田口や瀬戸などで修業を積み1647年ごろに京都仁和寺の門前にて開窯します …

高橋道八

高橋道八は江戸時代後期より続く京焼(清水焼)の窯元の一つで、陶芸家の名跡です。茶道具や煎茶器の名品を数多く輩出しています。 初代高橋道八の時代は煎茶隆盛期で、初代高橋道八も時代の流れに合わせ多くの煎茶器を作成し名品を残し …

駒澤 利斎

駒澤利斎とは、指物師を生業としている駒澤家の当主が世襲する名です(利斎を名乗り始めたのは4代目以降)。江戸時代から14代続いている駒澤家は、千家(千利休を祖とする茶道流派の家)との関わりが深く、二代宋慶の時代から千家より …

館林 源右衛門

 館林源右衛門は、江戸時代中期に創業した陶芸家です。 民窯として磁器を制作しますが、 明治・大正時代には料亭用の食器を中心に製造を行っていました。六代・館林源右衛門は、有田焼の一つである古伊万里復興に取り組み、伝統的技法 …

大樋 長左衛門

大樋長左衛門は石川県金沢市が誇る江戸時代から続く楽焼を、現代でも受け継ぎ続けてる大樋家の当主です。 大樋家の作る大樋焼は、ろくろを使わず手で捻りながら成型し、へらを使い削りながら作り上げます。これは楽焼の流れを汲んでおり …

中里 太郎右衛門

江戸初期から続く唐津焼の名工、中里太郎右衛門。技術の継承とともに、そこに現代的なデザインを組み込み作られる作品群は現在の14代目に至るまで、着実に受け継がれています。 中里又七を祖として現在まで続く中里家。特に注目された …

岡部 嶺男

岡部嶺男は陶芸家・加藤唐九郎の息子として生まれ、現代的な感覚で作られた青瓷や織部の優れた作品をのこした作家です。 若き頃から父に続き陶芸を学び、1952年の第8回日展にて志野の壺で初入選を果たします。2年後の第10回日展 …

三輪 休雪

三輪休雪は、萩焼窯元・三輪当主が代々襲名している陶芸作家としての名称で、単に休雪(きゅうせつ)とのみ呼ばれることもあります。 三輪家の歴史は古く、江戸時代から400年続く伝統的な窯元です。世襲制の当主も現在まで十三代続い …

塚本 快示

 塚本快示は岐阜県土岐市に生まれ、実家が累代製陶を営んでいた。そのため、幼少の頃より作陶姿を目にしており、自然とその世界を目指す志を持ち始めたと言われている。 1927年頃より父の手伝いで作陶を開始する。1950年に小山 …

須田 祥豊

 須田祥豊は1885年京都府生まれの陶芸作家である。須田祥豊は家業である製陶業に従事し、明治時代末期には祥雲と称し、茶陶制作を始めるようになる。後に五条坂に窯を築くと、国焼、朝鮮の写しを中心に作陶を行うようになる。朝鮮、 …

真清水 蔵六

 真清水蔵六は初代から4代続く京焼の陶工である。現在は4代目真清水蔵六が家業を継いでいる。初代真清水蔵六は、江戸末期から明治の京都の陶工である。山城国(京都府)に生まれ、清水太三郎(たさぶろう)と称した。13歳のとき、陶 …

清水 六兵衛

 清水 六兵衛(しみず ろくべい)は、江戸時代中期以来の清水焼の陶工です。 京都五条坂の陶芸の家系であり、当代・清水六兵衛は八代目となります。 初代 (1738~1799) は京都五条坂の窯元・海老屋清兵衛に学んだあと、 …

鈴木 盛久

江戸時代初期の1625年、南部藩(盛岡藩)御用鋳物師として創始し、現在までその技術を脈々と受け継ぐ鈴木盛久工房。長年守り続けた伝統技能は、現在非常に高い評価を受けています。 御用鋳物師を勤めていた頃は仏具や梵鐘、燈籠の鋳 …

肥沼 美智雄

子ども時代に惚れこんだ古代の土器を元に作陶を行う陶芸家・肥沼美智雄。唐草紋を配した置物や角張った花器などで確立された独自の作風は、その造形の巧みさから人気を得ています。 肥沼は1936年、東京の青梅で生まれました。小学校 …

三ツ井 為吉

 ジャパン・クタニという呼び名で世界中より評価され、有名な陶芸として知られている九谷焼。  九谷焼は約360年の伝統や多くの技法が多くの人々を魅了しております。  そんな九谷焼の作家として有名な方の一人はなんといっても三 …

中川 浄益

中川浄益(1559~2008年)は、金物、金工品を得意とした千家十職(金物師)の一人です。 初代である紹益は、当初、武具や鎧などの製作をしていたが、千利休の依頼をきっかけに茶道具製品の製作を開始したと言われております。 …

原田 拾六

備前焼にて人間国宝に認定されていないものの、近年、人気が高まってきている原田拾六という陶芸家をご存知でしょうか。 岡山県の備前市に生まれた原田拾六は東京農業大学を卒業してから普通の会社員として働いておりました。 ですが、 …

中村 翠嵐

中村翠嵐(なかむら すいらん)は、京都出身の陶芸家です。 色鮮やかなコーチ(交趾)において、絵具の改良により 独自の色を創出しました。また、従来にはない 極細の文様の作品を得意としております。 茶席での取り合わせによって …