バーナード・リーチはイギリス出身の芸術家です。
画家、陶芸家の他にデザイナーとしても知られています。
リーチは官僚であった父の影響で香港で産声をあげました。
幼少期を日本で過ごした事で日本に憧れを抱きます。その後ロンドン美術学校で高村光太郎と出会い、高村光雲を頼り来日。高村光雲の協力等を得て日本でエッチング教室を開きます。その生活の中で富本憲吉や柳宗悦、白樺創刊のメンバーと出会い交流を深めていきました。
一時期日本を離れ、香港等に滞在していたリーチでしたが、そういった縁もあり柳宗悦の民藝運動や日本民藝館の設立等に関わりました。
日本から帰国したリーチは英国イングランドのコーンウォールのセント・アイブスに新たに窯を開きます。東洋の文化と西洋の文化の融合を目指した新たな挑戦でした。
そういった活躍からリーチは英国ではスタジオ・ポタリーの父と言われています。
人気小説家の原田マハさんがリーチを題材とした小説を書くなど、国内でも人気の高い芸術家であります。
金谷浄雲は、1933年富山県に生まれました。
鋳造家で、宮内庁からの依頼を受けて正倉院供物の複製を制作している釡師の般若勘渓(はんにゃかんけい)に師事します。
弟子入りした般若鋳造所において、唐銅風炉を主とする茶道具制作に携り、その技を受け継ぎました。
金谷浄雲の作品は、釜肌がとても美しく繊細な所まで見事な作品で、朝鮮風炉・琉球風炉・鬼面風炉など風炉制作に定評があります。
風炉においては、重要無形文化財保持者(人間国宝)である釡師の高橋敬典との共作が多く、目にする機会も多いかと思われます。
伝統技法を受け継ぎ、後世に残す数少ない作家の一人として制作活動に励んでいます。
釜師 菊池政光は、1937年に山形県に生まれました。
奥州山形鋳物の伝統を受け継ぎ、茶釜や鉄瓶、風炉等多くの作品を制作しています。
菊池氏は人間国宝茶釜師である高橋敬典に師事したのち、昭和48年(1973年)に独立し菊池政光工房を立ち上げました。
その後は、日本伝統工芸展や伝統工芸新作展などへ意欲的に出品し、数々の入選や受賞を重ねます。
昭和57年(1982年)には日本伝統工芸士に認定され、いまなお茶釜製作の先頭に立ち製作に励みます。
伝統技術をベースにしたシンプルな形と肌触りに柔らかさを出すことを心掛け、常に使用される方の立場に寄り添った作品造りを心掛けています。
現在も常に新しい感覚を取り入れた作品は、多くの方々から支持を得ています。
加藤重高は、愛知県瀬戸市を代表とする陶芸家。
父は、瀬戸の名工 加藤唐九郎で、陶芸一家の二男として愛知県瀬戸市に生まれる。
愛知県立瀬戸窯業学校在学中より、父の唐九郎のもとで作陶生活をはじめる。
昭和41年には、日展で特選・北斗賞、現代工芸賞を受賞。その後も数々の有名賞を受賞する。
作家活動としては、個展を中心とし、全国各地で活動を行っていた。
加藤重高は、瀬戸を中心とした伝統技法の取得、研究を熱心におこない、志野、織部、黄瀬戸、唐津、伊賀など、父である加藤唐九郎と同様に幅広い領域の作陶を手掛けた。
三浦 竹軒は、京焼(清水焼)を代表とする京都府出身の陶芸家です。
京焼の名工『初代 三浦 竹泉』が父であり、その三男として生まれました。当初は三代竹泉として活動をしていましたが、昭和9年に独立をし、竹軒という名に改名しました。
陶芸作品としては茶道具・煎茶道具を中心に制作をしており、現在でも高い人気を誇る陶芸作家です。
現在は、伝統技術を継承した三浦竹軒の三男が二代目に襲名しており、初代同様多くの愛好家がおります。
楽吉左衛門は千家十職の一つで楽焼の茶碗を制作する茶碗師が代々襲名している名称で当代は十五代となります。
楽焼のは桃山時代(16世紀)に楽家の初代であった長次郎によって始められ、その技術は近年の研究にて三彩陶というものとされており、そのルーツは中国の河南地方の明時代三彩釉であったのではないかとされています。桃山時代には京都を中心に色鮮やかな三彩釉を用いた焼き物が焼かれており、長次郎もその技術を持った一人とされていました。
焼成や釉技術などは基本的に同じではありますが、造形や釉薬調に関しては中国華南三彩のものと大きく異なります。そこには千利休の「侘茶」の思想や美意識が大きく影響しており、中国華南三彩のカラフルな色釉技法を使用して黒と赤のモノトーンの世界を表現しております。
楽焼という名前の由来としては「聚楽第」近くに居を構えていたこととや聚楽第に屋敷をもっていた千利休の手から世に出されたことから聚楽焼と呼ばれるようになり、やがて楽焼や楽茶碗と呼ばれるようになりました。