大場松魚は「蒔絵」で国の重要無形文化財(人間国宝)に認定された石川県出身の蒔絵師です。
大場松魚といえば、「平文」の技法を現代に蘇らせたことで有名です。
「平文」とは、もともと奈良時代に中国から平脱という名前で伝達されていると言われています。
その技法は金や銀の板金を模様に切り、漆の表面に貼り付け、その上に漆を塗り重ね、板金の部分が見えるまで研ぎ出す、もしくは漆の膜を削り取って模様を表す方法です。
大場松魚は日本で初めてこの平文を作品制作に活かした作家となります。師である松田権六に伊勢神宮御遷宮の御神宝製作の仕事で本格的に平文技術を研究する機会に恵まれたことで、大場松魚独自の平文技法が生まれることとなりました。
その後も岩手県の国宝である中尊寺金剛堂保存修理に漆芸技術者主任として4年間従事したり、失われてた伝統技法を蘇らせると共に、フレンチガラスの技法を取り込んだりする等の他の技法との組み合わせを研究し、さらに技術を発展させていきました。
また、日本工芸副理事長、漆芸部会長、金沢美術工芸大学教授などを歴任し、後進の指導にも力を注いだ作家としても知られております。
松田権六は、「うるしの鬼」とも称された漆芸の第一人者です。
石川県に生まれた松田権六は、7歳のころから蒔絵の修行を始めて石川県立工業学校を卒業後に上京し、東京美術学校に入学しました。
卒業後は志願兵や東洋文庫で朝鮮楽浪出土の漆芸品の修理に携わった後に、六角紫水や大村西崖のすすめで現在のパイロット万年筆の前身である並木製作所に入社。伝統工芸の復興に力を入れる一方で万年筆やパイプに蒔絵を施す活動をし、1933年には欧州各国を回りイギリスではダンヒル商会にパイプの漆加工を指導しました。
帝国議会議事堂御便殿漆工事に携ったのをはじめ、法隆寺夢殿内に新調された救世観音の厨子の漆塗装監督も務めております。
東京美術学校教授、日本芸術院会員なった後、1955年には蒔絵で国の重要無形文化財に認定されました。1963年には文化功労者に選ばれる等の功績を残しております。
代表作に「鶴蒔絵硯箱」、「有職文蒔絵螺鈿飾箱」などがあり、加賀蒔絵の伝統を踏まえつつ、螺鈿や平文などの古典技法を現代化させ、近代漆芸に偉大な芸術世界を築き上げた方となります。
岩田藤七はガラス工芸で有名な工芸家です。
東京都に生まれた岩田藤七は、1911年に商工中学校を卒業後に白馬会洋画研究所で岡村三郎助に師事して洋画を学びます。東京美術学校に入学後は彫金、洋画、彫刻を学び、洋画を勉強する為に金工科を卒業した後に再度西洋画科へと再入学をしました。
1922年には建畠大夢に彫刻を学び、第4回帝展に「深き空」という彫刻作品を出品します。
1923年に西洋画科を卒業しますが、この頃よりアールヌーボーに啓発されガラス工芸を志すようになっていきました。今村繁三にガラスの手ほどきを受けた岩田藤七は、岩城ガラス研究室に通いながら帝展美術工芸部に出品し、1928年から1930年まで連続で特選に入賞するといった実績を残しました。
岩城ガラス研究室を退職後の1931年には岩田硝子製作所を設立し、ガラス工芸品を制作すると共に制作に必須な職人を育てることにも尽力しました。
1936年、第2回の個展を開催時から、勅使河原蒼風と組んで話題を集めたり、1950年には日展参事、1958年には日展顧問となりました。この間には第7回日本芸術院賞を受賞し、1954年には日本芸術院会員に推されます。
日展や日本伝統工芸展に出品したり、たびたび個展を開催し、1968年岩田藤七大回顧展(高島屋)開催を機に、「岩田藤七ガラス作品集」が刊行され、1970年に文化功労者に選ばれております。
岩田藤七の作品は色彩豊かで流動的であり、透明や切子ばかりであったガラス界に衝撃を与えたことで高い評価を受けました。また、色ガラスによる装飾壁面「コロラート」を制作し建築空間に応用することで新分野も開拓し、近代ガラス工芸に多大な功績を残した方といえるでしょう。
加藤唐九郎は、「永仁の壺」事件で贋作を作陶してしまった人物として良くも悪くも有名になってしまった愛知県出身の陶芸家ならびに陶磁史研究家です。
「永仁の壺」事件とは永仁二年の瓶子が鎌倉時代の古瀬戸の傑作として認定を受けます。しかし、銘文の不自然さなどから異論が相次ぎ、認定を受けた翌年に加藤唐九郎の長男が瓶子の製作に携わったことを明かします。そして、加藤唐九郎も自らの贋作であったことを明かします。
また、指定に関与していた文部技官・文化財専門審議会委員であった小山冨士夫は引責辞任、加藤唐九郎は無形文化財(人間国宝)の資格を取り消されるという美術史学界、古美術界、文化財保護行政を巻き込むスキャンダルとなった事件です。
このような事件で有名になってしまった加藤唐九郎ですが、日本の伝統的な造形に学び、桃山時代の陶芸の研究と再現に努めた作品は現代では高い評価を受けております。
また、作品の号も年代によって変わっておりますので参考にご紹介いたします。1961年には漢学者で詩人の服部担風翁より「一無斎」の号を送られ以後、作品の銘に「一ム才」を使用する。1962年には「一ム才」を「一ム」と改めるまた、1980年には作品に記す号に「野陶」「ヤト」を使い、。1981年の作品に記す号に「陶玄」を使い、後に「玄」を使用しております。
磯井如真は1956年に「蒟醤」にて人間国宝に認定された漆芸家です。
蒟醤とは、漆芸の加飾技法の一つで漆の表面に剣という彫刻刀で文様を彫り、その凹みに色漆【いろうるし】を埋めて研ぎ出し、磨き仕上げるものです。線刻の美しさが発揮されるといった特徴があり、江戸時代末期に讃岐国で活躍した漆芸家の玉楮象谷が積極的に蒟醤技法を活用しました。それ以来、高松には伝承者が多く、名匠が生まれております。
漆を彫るといった技法では沈金と変わりませんが、朱漆・黄漆といったの色ごとに彫りあげては充填させるといった作業を繰り返し、全部の充填が終わると表面を平らに研ぎ出すといった独特の技法です。
1883年に香川県に生まれた磯井如真は香川県工芸学校用器漆工科を卒業した後に大阪の貿易会社である山中商会に勤務し、そこで中国漆器の修理業を行い漆工技術を学びました。後に高松に帰り漆器業を営む傍ら、母校や岡山大学でも教鞭をとり、後進の育成に努めました。1933年の文展に初入選して以来、毎年入選をし、戦後は日展に出品、1949年には日展審査員となりました。1953年には、蒻醤にて無形文化財として認定されました。
磯井如真は蒟醤や彫漆の作品を主として手掛けており、特に蒟醤に関しては点彫の技法も取り入れる等の新しい表現も開拓しており、代表的な作品としましてはきんま八角盆、彫漆しやくなげ(手箱)などがあります。
一后一兆は石川県出身の蒔絵師で、あまり素性は知られていないものの「水蒔絵硯箱」が美智子皇后の御買上となるなど、輪島塗の名人として知られております。
その作品の特徴は、豪華絢爛な作風であると言えます。
棗の作品が人気を博しておりますが、その蒔絵には全て金が施されており、格式高い茶会でも使用されているほどです。
全て金が施されておりますが、そこにいやらしさはなく繊細で細部まで緻密にデザインされている「一后一兆の技術力」があるからこそ使われる素材が最高峰のものとなっていると言えます。
独特の色彩感覚と他の絵師には無い大胆さ、構図力を持っていることが「日本最高峰の蒔絵師」と称されている所以であるといえるでしょう。
青年期に蒔絵に憧れを持ち、辛い修行を乗り越えた後に日展に何度も入選する等の活躍をするようになりました。
そんな一后一兆の作品であるからこそ、多くの人々の心を動かすような魅力を持っているといえ、その作品群は日本のみならず海外でも人気の高いものとなっているといえます。