黒木国昭は宮崎のガラス工芸家です。
西洋のガラスの中に日本の美を組み入れた色鮮やかな作品は、見る者を虜にします。
黒木は1945年に九州・宮崎で生まれ、高校卒業後はガラス製造会社に勤務していました。1974年に独自のガラス制作を始めます。間もなく国内のガラス作品展へ出品を行うようになり、1984年にガラス工芸家として独立しました。その作品は海外でも評価されるようになり、世界各地で作品展が行われるようになります。また、技術が途絶えていた薩摩切子の復元にも尽力しました。
1991年、その優れた技能が評価され、国の卓越技能者表彰「現代の名工」を受賞します。その後も現在に至るまで世界各地の美術展覧会で、数々の賞を獲得しています。
作品にはいくつかのシリーズがあり、日本伝統の美を再現した「琳派」、浮世絵などの図柄を描く「日本の歴史ロマン」、四季折々の草花や生き物がモチーフの「新世紀ロマン」、洗練された線が刻まれた「綾切子」などが代表的です。
鈴木藏(蔵)は志野の人間国宝に認定されている陶芸家です。
1934年、岐阜県土岐市に生まれ、父は製陶会社の研究員でした。幼い頃より父から作陶の基本を学んだ他、陶芸家・荒川豊蔵や加藤土師萌に学び、桃山時代より続く志野の研究にのめり込みます。県立多治見工業高校窯業科卒業後は、父のいる陶苑に勤務、一方で作品制作にも取組みました。1959年、日本伝統工芸展、現代日本陶芸展への初出品作が初入選の快挙を遂げ、以降様々な展覧会で受賞を重ねます。さらに日本陶磁協会金賞、芸術選奨文部大臣賞受賞などの功績をうちたて、ついに1994年には重要無形文化財「志野」保持者に認定されています。
若い頃から続けていた志野研究では、伝統的な焼成窯を独自に改良するなどして新しい技法を確立するなど、桃山技法の単なる模倣ではない、独自の作品世界をつくりあげています。
川瀬表完は、江戸時代末期に京塗師であった初代・木村表斎を祖先に持ち、その技法を代々受け継いできた京塗師で、当代が川瀬表完を名乗ります。現在は三代目となります。
川瀬家は初代の千太郎から始まり、二代が繁太郎、三代が厚、四代が正と続いておりますが、表完と名乗るのが二代目の繁太郎からであったので、繁太郎が初代表完となり、現在の川瀬表完(正)は三代目となっております。
室町時代から全国漆器産業の中心地として栄えていた京都で作られる京漆器は、日本の中でも特に有名な工芸品一つとして知られております。様々なところで作られる漆器ですが、京都で作られる漆器は素材にもこだわっており、薄い木地を使って特徴的な蒔絵や螺鈿などの細工を施したり、優美で伝統や品位が感じられる作品を作る為、古くには王朝貴族の祭祀装飾品や大名の贈答品などにも使われていたそうです。
川瀬表完の作品は、茶道具を中心に培ってきた技法だけでなく現代感覚に合わせていること、さらにわびさびを取り入れた作品となっている為、茶人の間でも人気が高くなっています。
沈壽官窯は、1598年 (慶長3年) 、豊臣秀吉の2度目の朝鮮出征 (慶長の役) の際に、当時の薩摩藩主であった島津義弘が朝鮮から連れ帰った陶工のひとり、沈当吉から数えて15代続く薩摩焼の窯元となります。
薩摩焼は黒もんといった黒っぽい色の陶器をご存じかと思いますが、沈壽官の薩摩焼といえば、白もんといった呼び名の白薩摩が有名です。白薩摩と黒薩摩の違いは、土に鉄分を含んでいるか否かの違いです。桜島の火山灰が降り注ぐ鹿児島では鉄分の多い土が取れる為、どうしても黒っぽい陶器となっていました。当時の日本は、朝鮮のような白っぽい陶器に憧れをいだいていたこともあり、島津家は沈当吉に白い焼き物を作れとの命を受け、7年もの歳月をかけて完成させ、完成後に白薩摩を献上すると喜んだ当主が、薩摩焼と名付けたことが薩摩焼の始まりとされています。
当代である15代目も1999年に15代目を襲名してから、沈家に伝わる伝統を引き継いでいますが、その作風は余白の取り方や造形に工夫を重ね、高度な作陶技術で美を追求しております。白薩摩による典雅な金襴手や、細かい所にまで注意を極める透かし彫り、蝶や小動物などの浮き彫りといった微細な貫入を特徴としております。また韓国の明知大学客員教授に就任し、日韓の交流にも積極的に取り組んでいることで有名な方となります。
谷本光生は洋画の作家から陶芸家へ転身し、地域文化功労者に表彰された伊賀焼の陶芸家です。
伊賀焼は、400万年ほど前に伊賀地区がまだ琵琶湖の一部にあった際のプランクトンが堆積してできた土を使用しており、17世紀初めの伊賀焼である古伊賀は日本最高峰の陶磁器と言われ、器壁には、ヘラ工具を使用した波状の文様や格子状の押し型文様の他、ゆがみ、緑色のビードロ、灰かぶりや焦げ、鉄釉を垂らすといった技法が見られ人の手に施される性質の強い作品となっています。
大正3年に三重県に生まれた谷本光生は、当初は洋画家を目指し前衛的な絵画制作を行っていましたが、1946年に大阪の阪急百貨店にて開催された「古伊賀名品展」に感銘を受け、伊賀焼の陶芸作家になるとを決意し、工芸へ転向します。
その後は小森忍と日根野作三に師事し、1960年代に団体による展覧会発表に疑問を持つようになるまでは古伊賀の伝統を踏まえた現代陶器を制作していたが、個展に出品するようになってからは古伊賀をモチーフにした重厚なわび・さびを表した抽象的な表現になっていきました。
陶器以外にも書や絵画にも精通し、個展で発表し、現代伊賀の発展に寄与したとして1996年に文部大臣より地域文化功労者として表彰され、1997年には三重県教育文化賞などを受賞している。
若尾利貞は現代の美濃(多治見)を代表する陶芸家の一人で、特に鼠志野の第一人者と言われています。
志野焼の一つに鼠志野があり、志野焼とは耐火温度が高く焼締まりが少ない五斗蒔粘土やもぐさ土という鉄分の少ないやや紫色やピンク色がかった白土を使った素地に、志野釉と呼ばれる長石を砕いて精製した白釉を厚めにかけて焼かれ、優しい乳白色をしており釉薬のかかりが少ない縁などは赤みが見え、鼠志野は素地に鉄分の多い泥漿を施し、文様を箆で掘って志野釉をかけて焼くと、箆で落とした部分が白く残り、鉄の成分は窯の条件にて赤色や鼠色に変化します。
若尾利貞は鼠志野の従来のやり方を残したまま、今までにない技法が随所に表れており、一つの作品内に濃淡が何種類もある、素地の白と鼠色のみでなく赤色に発色させている部分がある、具体的文様が多く取り上げられていることが特徴的です。その独特の作品は美濃桃山陶の伝統を踏まえながらも、雅に富んだ煌びやかな印象を持つことができます。多くの陶芸家の心を掴むその作品は、個性は強いですが、主張しすぎず品の良いものとなっております。