物語の中の世界のような穏やかな色彩で描かれるヨーロッパの街並み風景。「旅への誘い」をテーマに描いてきた洋画家・井口由多可の作品は、その穏やかな風景描写と澄んだ空気感に心が惹きつけられ、自分もこの世界に行きたい、と強く感じさせてくれる魅力が詰まっています。
1947年九州に生まれ大学は慶應義塾大学の法学部を卒業。その後は船会社に勤務しますが、多忙により体を壊してしまいます。そんなときに趣味として独学で始めたのが絵画でした。24歳の頃会社を辞め画業に打ち込むようになり、1975年28歳にして第4回現代洋画精鋭選抜展にて入選を果たします。これがきっかけとなり2年後の同展では金賞を受賞。フランス芸術家協会主催のル・サロンで名誉賞を受賞するなど、その作品が高く評価されるようになりました。
現在は全国各地の百貨店などで個展を開催する一方、自身が会長を務める旭美術協会にて後進の育成にも力を入れています。
2015年に画業40年を迎えましたが、いまだ向上心に溢れ、新たな作品に向けて研究を続けているとのことです。
1853年10月24日~1923年8月7日 白山 松哉(しろやま しょうさい)は、明治から大正にかけて活躍した漆芸家になります。東京出身で、若い頃より小林好山や蒲生盛和の門下になり、蒔絵や螺鈿、堆朱等を学びました。その後、明治初頭日本の美術品や物産品を世界へ輸出していた、日本の貿易会社「起立工商会社」に勤務し、漆芸の製作に携わった。1905年に転職し東京芸術大学にて教鞭を執りました。松哉の作風は「研ぎ出し蒔絵」と呼ばれ、極めて類もない緻密な作品でした。その高い技術が認められ、1881年に開催された内国勧業博覧会や1900年に開催されたパリ万博では、それぞれ名誉賞を受賞し海外でも有名な漆芸家となりました。1906年に帝室技芸員や農展の審査員に採用されました。
1836年~1902年 山名 貫義(やまな つらよし)は、現在の東京都千代田区麹町の出身で明治時代に活躍した日本画家になります。明治維新後、工部省、内務省、農商務省に測量技術をもって出仕し、明治10年代の際に再び画道に戻り、1879年古画の模写を嘱託されます。1884年の第二回内国絵画共進会で審査員として加わり、「藤房奉勅訪楠氏図」「獣虫戯図」を出品し銀賞を授与されました。同年創立した鑑画会では、狩野永悳、狩野友信と共に、古画の鑑定委員として参加しておりました。その後、皇居造営の際に杉戸絵等を多数手掛け、当時の「今日新聞」(都新聞)に異なる10の分野において当時最も優れた人物を読者投票で選ぶという「日本十傑指定」の記事では、政治家では伊藤博文、軍師で榎本武揚、学術家で中村正直、著述家で福沢諭吉らと並び、10番目に画家として山名貫義の名が挙げられ,1896年に帝室技芸員となりました。現代ではあまり知られておりませんが、当時貫義は大和絵最後の大家として高く評価された画家になります。1902年6月11日67歳で死去しました。
1890年~1979年 山崎 光洋(やまざき こうよう)は、石川県能美郡生まれの陶芸家になります。1912年に京都へ行き早苗会に入塾し山本春挙に日本画を学びました。以後、農展、商工展、パリ万博で賞を受賞し、京都の美術工芸展にも出品し受賞をしております。戦後の51年に清水六兵衛らと無厭会を結成し、58年展覧会を開催しております。60年に京都伝統陶芸家協会を創立し、幹事に就任しております。2代目の光洋は、京都で誕生したので京都をはじめ、関西県内で買取をさせて頂きますと、高い確率でお取り扱い致します。人間国宝などの作家ではないので、高額なお見積り金額は付きませんが、弊社緑和堂では買取可能な作家の一人となります。
龍文堂とは江戸末期から昭和33年頃までに8代続いた京都の鉄瓶屋になります。初代・四方龍文が京都で蝋型鋳造によって鉄瓶を造ることを創案したことが龍文堂のはじまりだと言われております。龍文堂の名声は明治から昭和の頃にかけて日本中に伝わるようになりますが、その一方で蓋の裏に「龍文堂」と名前だけ掘った贋作が数多く世間に出回ることとなりました。2代目龍文堂・四方安之助の弟子には亀文堂創始の亀文堂正平や、鉄瓶の作家として名高い秦蔵六がおり、どちらも近年に至るまで高い評価を博している作家です。夏目漱石の「吾輩は猫である」の文中にも「この様な時には龍文堂の松風の音を聞いて茶を喫するが、最高の贅沢」といった一節がございます。以上のことから龍文堂が、高級な鉄瓶として評価されていたことがわかります。
平田陽光は1906年に初代平田郷陽の息子として誕生しました。
その後、父である初代平田郷陽に師事を受け人形造りを学んでいきます。
平田陽光の兄である二代目平田郷陽は国の重要無形文化財(人間国宝)に認定されています。
兄の二代目平田郷陽が非常に精巧な生人形と呼ばれる1点物の人形造りに力を入れる中で、兄の郷陽とは違い平田陽光は限られた予算の中で良い物を作る事に力を注ぎ、市販品での高品質な人形造りを目指し活動していきます。
市販品の限られた予算の中でも平田陽光の人形造りの腕前はとても高く素晴らしい技術を持っていました。
平田陽光の作る人形は活き活きとした表情や指先までも精巧に作られた非常に美しい仕上がりとなっています。
また、平田陽光作品の中でも市松人形の人気は非常に高く現在でも高額で取引されています。