古吉 弘(ふるよし ひろし) 1959年~現在
1959年生まれの広島県広島市出身の洋画家になります。
京都芸術短期大学に在学中に「大徳寺絵画研究所」に通っておられました。
1980年に卒業され、8年後に花と女性美展にてグランプリを受賞されます。
以後、高島屋、三越等の百貨店にて個展を開催し2000年には、小磯良平大賞入選をされました。
2003年には第一回アートアカデミー賞入賞、2005年アメリカ合衆国アート・リニューアルセンターにて、国際公募人物蕪尾門一等賞を受賞致しました。
2010年クリスティーズのオークションにて、作品「Julien」がオークション最高額549万円で落札され、世界から注目を集めることとなり、2013年の同オークションで「MAYA」が815万円で落札、一夜にして号160万円の作家になった逸材の方になります。
田口 寿恒(たぐち としちか)1940年4月13日~現在
東京都出身で鍛金家で人間国宝になります。高校を卒業後、父・田口恒松に師事しその道を歩み始めます。お父様の代までは展覧会に出品することはせず、それまでは主に茶道具、やかん、急須、ぐい飲み、徳利といったお酒の酒器等を制作していたそうです。「人がやりたがらないことをやろう」と考えた結果が鍛金でした。鍛金の魅力はまさにその打った跡が魅力で光の当たり方で見え方が違うので徳に飾る必要がない作品が特徴になります。田口は、良い物をつくろうと日々精進しているが、なかなか成果に表れないがどう育っていくかがとても楽しいそうです。同じものを制作しようにも毎回違うものができるので作っている本人もどうなるかわからない。そこがまた一つの魅力でもあるそうです。2006年に重要無形文化財(人間国宝)に認定されました。
関谷 四郎(せきや しろう)1907年2月11日~1994年12月3日
日本の鍛金家で秋田出身の作家になります。5歳の時に父を亡くし幼時のころに大病にかかった影響で足が不自由になり座業を生業とするべく秋田市内の森金銀細工工店で伝統工芸の銀線細工を学びました。鍛金講習会の為来県しておりました河内宗明と出会い弟子入りしております。1938年に独立をし東京の本郷団子坂に工房を設立。1942年の第5回新文展にて初入選をし、その後同展や日展に出品致します。その後も優秀賞、教育委員会賞、特別賞等を受賞し1977年に重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定されました。彫金による表面加工はせず、鍛金のみで織りなす豊かな質感や異種の細かい板金をろうで溶接する技法の創出な作品を制作しておりました。肺炎の為1994年12月3日東京都板橋区の老人医療センターで死去致しました。
米光 光正(よねみつ みつまさ)1888年5月1日~1980年3月29日
日本の金工家、彫金家になり熊本県出身の作家になります。江戸時代から続く肥後象嵌の伝統を伝えた人間国宝になります。叔父の吉太郎に師事し厳格な指導のもと修行をなされました。以来77年にわたり象嵌一筋で生きてこられました。肥後象嵌は主に鉄地に金銀銅をはめ込み、鉄砲や刀鍔に施されてきましたが、明治頃の廃刀令により制作中止が余儀なくなれました。その後、花瓶や置物にも象嵌が生かされるようになり、現代工芸の発展の基礎を作ったのが吉太郎でしたが光正は師に学ぶ一方で若い時期より絵画・書道・茶道・生花などの諸工芸を学んでおります。その後全国工芸展に度々入選し、40歳で独立。60歳頃より後継者の育成に熱心にとりかかりました。1965年「肥後象嵌・透」の技術保持者として人間国宝に認定されました。1980年3庄29日に脳出血の為死去致しました。
斎藤 明(さいとう あきら)1920年3月17日~2013年11月16日
東京都西巣鴨に鋳金家斎藤鏡明の長男として誕生。1935年父の鏡明に技法を学んだが、38年(斎藤 明18歳の時)に父が急逝し1909年に設立した工場を引き継ぎました。工房には、佐々木象堂や2代宮田藍堂らが冬の間制作場としていたため、技術の指導を受ける機会に恵まれました。1950年高村豊周に師事し、豊周が逝去するまでその工房の主任をつとめた。その後日展や工芸展等に作品を出品し数々の賞を受賞致しました。その功績あって1993年に重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定されました。2013年11月16日老衰の為死去致しました。斎藤 明は、伝統工芸で新たに吹分(ふきわけ)という技法を生み出し青銅に真鍮や銅など異なる金属を鋳型に流し込んで、色彩的な変化を付けると同時にその境界の金属の交じり合う微妙な融合の美を追求致しました。
高村豊周は日本の鋳金家であり、彫刻家の高村 光雲の三男として明治23年(1890年)7月1日に東京で誕生しました。
鋳金(ちゅうきん)とは、溶解した金属を鋳型に流し込み、冷却してから取り出し、表面を研磨などで仕上げる技術のことを指します。18歳で津田信夫の門下に入り、大正4年(1915年)3月に東京美術学校鋳造科本科を卒業しました。在学中、「実在工芸美術界」などのグループを組織し、これらの活動を通じて長年にわたって工芸の近代運動に没頭しました。伝統的な技法を駆使し、業界の大御所的存在でありながら、鋳金家協会長も務めました。特に晩年の回転体による円壷の成形は、他に類を見ない卓越した技術を発揮し、まさに日本を代表する鋳金家の一人と言っても過言ではないでしょう。
また、銀座の4丁目交差点にある「和光」の名付け親でもあります。1972年、肺炎のため東京都文京区の自宅で死去しました。