井上萬二は重要無形文化財(人間国宝)「白磁」を保持する陶芸家です。
1929年佐賀県有田町の窯元の家に生まれます。軍人になることを目指し海軍予科士官学校に入りますが敗戦により復員し、十三代柿右衛門の元で働く事となります。その後初代奥川忠右衛門に影響をうけ、白磁やろくろの技法を学びました。1958年より佐賀県立有田窯業試験場にて技官として勤務し、一方で独学により釉薬の技法などを学んでいきます。1968年に日本伝統工芸展で初入選をはたし、翌年には有田焼指導者として渡米します。その後は国内外を問わず精力的に活動を行い、1987年の日本伝統工芸展では文部大臣賞を受賞。1995年に重要無形文化財「白磁」保持者に認定されます。2002年にはモナコ国王在位45年記念の展覧会も開催し世界的にも高く評価されています。
井上の作品は色に頼らない純白の白磁が特徴です。歪みの一切ない白磁の造形は非常に美しく、究極の白磁と呼ぶにふさわしい存在です。
西中千人は和歌山出身のガラス工芸家です。
大学時代は薬学を専門としていましたが、卒業後はクリスタルガラスメーカーに勤務した後、アメリカに留学してカリフォルニア芸術大学で本格的にガラス造形を学んでいます。帰国後は日本唯一の公立グラスアート専門学校・富山市立富山ガラス造形研究所で助手を務めた後、1998年に独立して「ニシナカユキト GLASS STUDIO」を設立しています。
その作品は、従来のガラス工芸とは全く違う特徴を持っています。「呼継」という陶器の修復方法を参考に、様々なガラス片を、あえてその割れ目を強調するような形で接合していきます。その形は、古来より日本に存在する独特の美意識「不完全の美」を、現代へと継承しているものといえ、さらにその豊かな色彩と光を通すガラスという材質によって、新たな美へと進化をとげています。また日本の伝統文化を大切にする作風から、作品に茶道具が多いのも特徴です。陶器にはないガラス特有の色が、伝統的な形と交わるその姿は、現代の日本美術の姿といえるのかもしれません。
五代伊藤赤水(本名・窯一)は無名異焼窯元・赤水窯の代表であり、人間国宝に認定されている人物です。
1941年、四代赤水の長男として生まれ、京都工芸繊維大学窯業工芸学科を卒業し、家業を受け継ぎました。祖父である三代赤水にその技術を学び、1977年に五代目を襲名します。また1972年の日本伝統工芸展入選から始まり、国内の作品展でその実績を積み重ねていきます。1980年代になると、アメリカのスミソニアン博物館をはじめとした、海外の博物館にも作品を出品し、世界的にも知られるようになりました。
無名異焼は、原料となる酸化鉄を多く含んだ赤土を高温で焼成することでつくられ、作品は赤土の色となるものですが、五代赤水はこれを黒く変色させる「窯変」、異なる色の土を重ね、その断面で模様をつくる「練上」の技法を完成させました。
その功績と技法、そして江戸時代から続く伝統が評価され、2003年に重要無形文化財「無名異焼」保持者に認定されました。
島岡達三は「縄文象嵌」の人間国宝となっている益子焼の陶芸家です。
1919年に東京愛宕の組紐師である父の元に生まれますが、高校生時代に訪れた日本民藝館で、濱田庄司や河井寛次郎の作品に惚れ込みます。こうして陶芸家になることを決意し、東京工業大学窯業学科に入学しました。
在学中に太平洋戦争で出征しますが、なんとか生き延び、復員後は栃木県益子町へ移住し濱田庄司の門下となります。濱田の指導を受けた後は栃木県の窯業指導所に勤務し、縄文土器の復元などにも携わっています。この経験が代表的な独自技法「縄文象嵌」の考案へ繋がります。
乾燥前の生地に組紐で模様をつけ、その窪みに象嵌を施すことで完成する縄文象嵌。父の組紐技術と、縄文土器に触れることができた達三ならではの発明といえます。
この技術のおかげで1996年には重要無形文化財「民芸陶器(縄文象嵌)」の保持者に認定されました。
富本憲吉は「色絵磁器」で人間国宝に認定された陶芸家です。
1886年に奈良・生駒の地主の家に生まれました。東京美術学校へ進学し、建築・室内装飾を学びます。在学中にロンドンへ留学し、西洋の芸術に直に触れることとなりました。帰国後は建設会社に入りますが、すぐに退職します。
そんな時、来日していたイギリスの陶芸家 バーナード・リーチに出会います。ロンドン留学のおかげで英語が堪能だったことから親交を深めていき、同時にリーチに影響され陶芸に興味をもちました。まもなく実家に簡単な窯をつくり、自ら作陶を始めます。数年後には窯を本格的なものに改め、独学で制作を続けました。各地の窯場を巡りながら研究する過程で、ついには陶器より難しい磁器の作成にも成功します。
1926年に東京・祖師谷に移り住み、白磁や染付の制作が主体となりました。1936年になると久谷の色絵磁器の制作に取り組みます。1944年には東京美術学校教授となりますが、戦後間もなくこれを辞し京都へ移ります。この頃編み出した独自技法「金銀彩」は、色絵と同時に金・銀も焼きつけるもので、晩年の金銀彩と色絵を組み合わせた華麗な作品は、現在も高く評価されています。
1955年、重要無形文化財保持者の認定制度が成立後、最初に認定された日本初の人間国宝の一人となっています。
藤田喬平は、日本のガラス工芸の第一人者として活躍した人物です。
1921年に東京・新宿に生まれ、東京美術学校に入学し、当初は彫金を学んでいました。しかしガラスの美しさに魅せられ、ガラス工芸家へと転向します。1947年に岩田工芸硝子へ入社し、ガラス工芸の基礎を学び、2年後には独立しました。独立後は実用品から美術品的なガラス作品の制作へ軸をうつし、ガラス工芸の本場であるイタリアでも学びました。個展で作品を出品しつつ、新たな技法の研究も行い、「飾筥」シリーズでは色ガラスに金箔を混ぜる独自の技法を確立します。琳派の日本画の色を取り込み作られる作品は、海外でも高い評価を受けました。作品は型を使わず、手吹きと呼ばれる竿で息を吹き込んで膨らませる方法で制作されています。
その技能の高さと功績から、紺綬褒章や文化功労者、そして初のガラス工芸による文化勲章などの栄誉を手にしています。