千住博といえば、1995年にイタリアのヴェネチア・ビエンナーレ優秀賞を獲得した「ウォーターフォール」といった、滝や崖などの自然物を題材にした作品が多い画家です。作品を見ると千住博らしさを感じる独創的な作画なのですが、その中には斬新さと日本の自然美をそのまま表現したような綿密な美しさが感じられます。
日本でも大徳寺聚光院別院全襖絵の制作や、羽田空港国際線の到着口のロビーに作品が展示、羽田空港ショッピングモールの天井画の制作など、日本の美として千住博の作品が認知されています。上記以外にもアートプロジェクトとして多くの場所で制作作業を行っていましたので、皆様の目に触れる機会があったのではないでしょうか。
千住博の作品は軽井沢にある千住博美術館に多く展示されています。こちらの美術館は建築段階からこだわりを持って建設されており、千住博の作りたい空間がそこにはあります。作品だけでなくその空間が千住博のアートとして確立されており、皆様に与える千住博の美を深く感じることが出来る場所となっております。
高畠華宵は愛媛県宇和島市裡町に生まれの日本画家です。雑誌や新聞の挿絵・広告絵などを描いて、人気画家として一世を風靡しました。大正から昭和初期にかけて、華宵の絵は当時の少年少女の間で絶大な人気を得ました。津村順天堂のポスターを描くようになり、広告界へ参入します。雅号を「華宵」とし、講談社をはじめとして多くの出版社の挿絵や装幀(そうてい)を手がけるようになり、一躍人気作家となります。その後、「華宵便箋」が発売されるなど、常に大衆生活との密接なつながりを保ちながら活動します。大正から昭和初期にかけて独自の美人画で一世を風靡し、「銀座行進曲」の歌詞にも登場するなど、大正ロマン期を代表する人物の一人です。画風は妖艶さと清楚さを併せ持つ少女画・美人画と、凛々しく潔い、色香を漂わせる少年画は一目で彼の作品とわかるほどの個性を放っています。
その後『少女画報』『少女倶楽部』『少年倶楽部』(いずれも講談社)『日本少年』『婦人世界』(いずれも実業之日本社)などの少女向け雑誌や少年雑誌、婦人雑誌などに描いた独特な美少年・美少女の挿絵や美人画は一世を風靡し、竹久夢二らと並ぶ人気画家となりました。1926年には自身の意匠による便箋や封筒を発売するなど、現代でいうメディアミックス風のプロモーションも行い、当時の流行歌「銀座行進曲」の歌詞に「華宵好みの君も往く」と歌われるほどになりました。
上村松篁は日本画の巨匠である上村松園を母に持ち、上村松篁も花鳥画の最高峰と言われた作家です。
京都に生まれた上村松篁は、幼いころより母・上村松園が絵を描いていたことも影響して自然と画家を志すようになります。しかし、松園は絵を描くところも絵の手ほどきをすることもなかったそうです。ただ、松園が骨董屋が持ってくる商品を見定めているのを見聞きして、松篁は品の高い物などを見分ける実力をつけていきました。
松篁は花鳥一筋で絵を描いておりますが、そのルーツとしては松篁が6歳の時に見た、鳥かごから鳥が一斉に飛び出す様子がとても美しく映ったことであり、その後はどんどん花鳥の魅力に惹かれていきます。
その後は母・松園が格調高い女性像を一筋で追い求めたように、松篁も格調高い鳥の絵を追い求めました。
リアリズムに影響を受け、写実的なものの中に美しさを追い求めて日々スケッチを繰り返したり、アトリエの中に鳥小屋を設けて280種類もの鳥を飼育して花鳥の美を追い求めた上村松篁の作品は、今も人気の高いものとなっています。
昭和初期から平成にかけて活躍した日本画家の一人に上田臥牛という方がいます。
1920年に兵庫県に産まれた上田臥牛は川端画学校を卒業後に小林古径に師事し、端正かつ清澄な画風を学んでいました。
その後、1950年代にアンフォルメルという新しい美術動向が入ってきたことに洗礼を受けて画風が変わっていきます。
アンフォルメとは第二次世界大戦後にフランスを中心に起こった抽象画の運動であり、すべての定型を否定して色彩を重んじて激しい表現を行うものです。
この運動は1950年代から1960年代に国際的な広がりをみせ、多くの芸術家や批判家に影響を及ぼしました。
その影響からか1961年にはグループ62層を設立し、「巖A」や「巖B」といった抽象的表現を発表していきます。
その後は現代日本美術展、日本国際美術展、朝日秀作美術展にも出品していき、日本画における独自の画風を追求し続けて日本画壇に新たな作風を吹き込むことに尽力していきました。
戦後の激動の時代に日本画の独自の追及を続け、日本画壇に新たな新風を吹き込もうと尽力した上田臥牛の作品は今も人々を魅了していることでしょう。
滋賀県出身の画家で有名な人物といえばなんといっても小倉遊亀でしょう。
小倉遊亀は女性初の日本美術院理事長となってり105歳でお亡くなりになるまで精力的に絵を描き続けた情熱は多くの人を魅了しました。
小倉遊亀の作品は身近なものを題材にした人物画や静物画を多く描いております。代表作としましては「径(こみち)」でご存知の方も多くいらっしゃることかと思います。この作品は小倉遊亀が71歳の時の作品であり、母親の後ろを歩いていく子供と犬がほほえましく描かれているなんとも小倉遊亀らしい作品といえるでしょう。
代表作の「径(こみち)」からも小倉遊亀は日常の身近なものを描くことで近代的な表現が明確に打ち出されていると感じることができます。
小倉遊亀の郷土である滋賀県の滋賀県立近代美術館には小倉遊亀の作品が60点ほど展示されているそうですので、小倉遊亀の作品をたくさんご覧になりたい方がいらっしゃいましたら足を運んでみてはいかがでしょうか。
近代日本画の復興に尽力し、戦後は制作の傍ら美術行政にも取り組んだ日本画家・安田靫彦。日本画の中でも特に歴史画を得意とし、多くの優れた作品を残しています。
安田は1884年、東京日本橋に生まれました。13歳の帝室博物館の法隆寺金堂模写や日本画家たちの作品を目にし、自らも画家になることを決意。前田青邨と共に紅児会を結成しました。東京美術学校はすぐに退学してしまいますが、岡倉天心に認められ日本美術院に参加します。1914年の日本美術院再興の際は横山大観や下村観山とともに尽力しました。また、画家になるきっかけとなった法隆寺の壁画壁画保存会にも所属しています。
戦後は国宝保存会委員や文化財専門審議会委員などにも就任し、文化財行政でも活躍しています。その他、1944年より、東京美術学校教授も務めました。
1948年に文化勲章を受章。1951年には文化功労者に顕彰されています。
代表作となる『飛鳥の春の額田王』や『窓』は切手にも採用されました。