ジェームス・リジィは版画作品の3Dアートで世界的に有名なアーティストです。
平面作品を立体的に見せる3Dアートの先駆者として名高く、地元であるニューヨークのような都会の日常風景である喧騒をポップに表現したことが高く評価されています。
彼の作風は明るい色味が特徴で、作品全体にアメリカが持つエネルギーを感じさせるものです。当初は都会の喧騒をテーマに描いていましたが、より独自性を出すため3Dへと作品を進化させます。
これは当時活躍していたヒロ・ヤマガタや、後に3Dアートの大家となるチャールズ・ファジーノが作品に取り入れるなど大きな反響を呼びます。
世界中にファンを獲得するにまで至ると、アトランタオリンピックの公式アーティストとなりポスターを手掛け、長野オリンピックにおいてもIOC公式アーティストになるなど、活躍の場を広げていきます。
華々しい活躍を遂げたジェームス・リジィですが、2011年に惜しまれながら世を去ります。彼の作品は現在でも多くの人々に親しまれております。
糸園和三郎は1911(明治44)年8月4日大分県中津町の呉服商の家に生まれる。小学校5年生の時に骨髄炎にかかり手術を受ける。小学校を卒業した後は、病気のために進学を断念。1927(昭和2)年上京し次兄と共に大井町に住む。父に絵を描くことを勧められ、美術学校に通い始めた。前田寛治の作品に感動し、29年には前田の主催した写実研究所に学ぶ。29年ごろから絵画展で入選ようになり多くの賞をもらったのもこの頃である。
その後の糸園は新しい画会を立ち上げたり、いろんな画会に参加したりなど美術協会に貢献している。43年に作り上げた画会は戦時中でも自由な表現活動をするための場として立ち上げられました。45年に笹塚の家が東京大空襲にあい作品のほとんどを消失している。故郷の中津市で絵画塾を開くなど地元を大事にする活動も行っている。
晩年は後進の育成などに力を入れ1957年から1981年まで日本大学芸術学部で指導を行った。その間1959年に脳動脈瘤と診断されるが、絵を描くことができなくなる可能性があることから、手術を受けず一年半の療養生活を送るなど絵に対しての熱い思いを持っている。
糸園和三郎の描く作品は、心に浮かんだ映像を長い時間をかけて醸成させ、キャンバスの上に写し換えるという描き方で、画面からは余計な対象物が排除され無駄な物が無く、描きたい対象をダイレクトに伝えてくる迫力がありますが、どこかさみし気で静けさを感じさせる。
舟木誠一郎は東京生まれの画家で、女性の美しさをモチーフにした人物画に長けた作家です。最近美術業界では話題に上がり評価が高くなっている、リアリズム、写実性を重視した、写実絵画の分類の作品を描く作家です。
基本的に描く作品は女性がモデルの作品になります。その中には裸婦画もありますが、女性の肌の質感、眼差し、手や髪や表情などを細かく描き外面的な美しさとにじみ出る内面的な美しさを表現しています。舟木誠一郎の作品を一言で表すとやはり「美」になると思います。
冒頭で写実性の高い作品をとお話させていただきましたが、舟木誠一郎が作る作品の中には写実的な人物画に更に加筆した作品もあります。「沈黙」という作品がそれにあたるのですが、その作品には美しい女性の背中から美しい白い羽根が生えており、幻想的な雰囲気を醸し出しています。このような作品は写実絵画とは異なった作品に分類されてしまいますが、絵の中の女性は美しく幻想的で物語に出てきそうな雰囲気を漂わせています。
このように写実性の高い女性画と、物語性のある幻想的な女性画を描いており、どちらも「美」を大事にした美しい作品です。昨今の写実性ブームと相まって舟木誠一郎の作品は人気が高いです。
ダニエル・ボネックは1955年にフランスで生まれ現在も活動なさっておられる画家です。兄のアラン・ボネックも画家であり、二人は画風が一致からボネック兄弟の名前で個展を開くなど兄弟で精力的に活動しています。
絵の特徴として色彩豊かで植物が必ずと言っていいほど描かれており、人物も可愛らしく明るい表情の全体の雰囲気の明るい絵が多いです、また幻想的な風景を基本としており童話の世界のような絵が特徴的です。
主な活動、活躍としてはフランスを初めとして、ヨーロッパ各国・アメリカにて、多くの展示会が開催されています。またフランス大蔵省が絵を限定版のコイン、メダルに採用、1990年にユニセフが絵ハガキに採用したりと多くのメディア、国際的に注目を浴びています。
ジャン・フォートリエはフランスの抽象画家、彫刻家です。
1940年~1950年代の抽象画家様式である、タシスムの作家として重要な人物とされています。
幼少期から美術学校に通い腕を磨き、展示会の出品や個展を開くなどをして作品を発表していた。この頃描いていた作風は、感情を作品に反映させる表現主義と呼ばれています。
作品制作に力を入れていたが、評価を得られず金欠となり、スキーのインストラクターや、ジャズクラブを立ち上げるなどをして2年~3年程創作活動をしていない時期もありました。
創作活動を再開してからはレジスタンス活動を疑われ、ドイツの秘密警察に追われるなど過酷な日々を過ごしました。しかし、その経験から代表作の「人質」は生まれ、高い評価を獲得するきっかけとなりました。
戦後日本にも来日し個展を開催しており、1964年に亡くなったが、没後パリやスイスなどで回顧展が開かれるなど注目され続けている作家です。
上野憲男は北海道出身の抽象画の作家です。10代で自由美術展へ初出品、初入選するなど、若かりし頃から高い才能を発揮していました。
その後は美術会の会員になるなど確かな地盤と評価を受け、執筆作業に力を入れることができました。この頃から特徴的な青を基調にし、文字や記号を浮遊させた独自性の高い作品を生み出すようになりました。
また「種子と惑星」シリーズを作成し強烈なオリジナリティーを確立しました。
作品から感じる情報は少なくもあり多くもある、ただの記号や文字、何でもない落書き、数式、はたまた世界の理や、死生観、どれが作品について言い表すのに正しいのか、はたまたどれも正しくないのか、見方や考え方は人それぞれです。
作品の執筆意欲は高く他にもシリーズ作品を発表し、物語を感じさせるシリーズや、新しい挑戦として青以外の原色を大胆に用いたシリーズなど、バイタリティ溢れる活動をしておりました。
上野憲男は自由な作風で自由に作品を作り続けた作家でしたが、2021年6月に心不全にてこの世を去りました。
自由と美を愛する気持ちは生き方と作品から感じられる、そんな感覚を与えてくれる作家です。