ジャンセンは1920年アナトリア(現在のトルコ)にて生まれました。父はアルメニア人、母はトルコ人と当時のオスマン帝国の情勢では非常に危うい立場でした。家族は危険な故郷を離れ、ギリシャに移り、その後フランスへと渡りました。
フランスで過ごす中でジャンセンは画家にになることを決め、パリの装飾美術学校の他、デッサン学校やアトリエで絵について学んでいきます。
1939年以降はフランスを代表する美術展であるサロン・ドートンヌ展を始め、多くの展覧会に出品しています。1950年代からは定期的にイタリアを訪れ制作を行いました。その実力が認められ、1960年代には世界各地で個展を開くようになります。2002年にはアルメニア正教会1700年記念として、アルメニア国立美術館にて「虐殺展」を開催し、アルメニア国家勲章を受章し、2003年にはフランスの最高勲章 レジオン・ドヌール勲章の受賞をするなど世界に認められた作家の一人です。
ジャンセンの作品は、自らの目で対象を見て、ありのままの姿を描いた作品で、デッサンを重視しています。線画家であったジャンセンの作品は、彼の目に映る世界をそのままに映し出しています。
主なシリーズ作品は、バレリーナ・ベニス・闘牛・マスカラード(仮面舞踏会)・虐殺と多くのシリーズものを残しています。
日本でもジャンセンの評価は高く、1993年には長野県にある安曇野にジャンセン専用美術館がたてられています。
クリスチャン・ラッセンはアメリカのカリフォルニア州、海沿いの町であるメンドシーノ出身の画家です。
ラッセンが11歳の時にハワイ・マウイ島へ家族で移住し、1976年より作品を発表します。幼少のころハワイに移り住んだラッセンは海の魅力に魅せられ、海・イルカ・自然への愛情を膨らませました。
ラッセンの作風はハワイの海中風景やイルカなどの海洋生物を主要なモチーフとして、南洋の自然観を鮮やかな色彩の画風で描き、「マリンアート」と称されます。その作品は安価な版画やリトグラフ、ジグソーパズルとして大衆的人気を得ました。特に日本ではバブル期に一世を風靡し、大きな知名度を持つ作家となりました。
1990年頃からは環境保護活動を行っており、作品の収益の一部を環境問題に投じるなど、自身の愛した自然への孝行的な一面も見られます。
ミッシェル・バテュは、フランスの女性画家で、フランス国防省海軍公認画家に選出された人物として有名です。
海軍画家とは、海軍と共に軍港を訪れ、各々のテクニックでそれを表現します。彼らの作品は、海軍業務のルポルタージュとも呼ばれ、2年に一度開催される海軍芸術展に出展され、人々に海軍業務を伝える役割を担っています。
バテュは、1946年にフランスのパリに生まれます。幼いころから絵を描くことが好きで、建築家の父がデッサン用の鉛筆と大きな紙を与えたこともあり、絵画の世界へと導かれていきます。
高校に進学してからはさらに絵を描くことに没頭していくようになり、夜中の皆が寝静まった後に絵を描くこともあったそうです。バテュはパリ国立美術学校に入学し、在学中に世界中を旅して異国の絵画を学び、自身の腕を磨きました。
その後、数々の賞を受賞していったバテュはその功績が称えられて2003年にフランス国防省海軍公認画家に選出されました。
バテュの作風としては、写真家の夫を持つ影響から世界中を旅して周り、そこで自然から感じた感覚が絵の特徴や構図に反映されております。アトリエがパリの自宅のみならず、フランス中部に14世紀からある館にもあり、そこではバテュの作品が一般公開されています。
自然現象を用いた抽象作品を得意とした画家・元永定正。近年の具体美術の再評価とともに、現在その人気は国内外問わず非常に高いものとなっています。
定正は1922年、三重県に生まれました。学校卒業後は工具店や国鉄に勤務しましたが、その一方で漫画の投稿も行っていました。1944年地元に戻り油彩画を学びます。地元三重県の公募展などで入選を重ね、漫画の連載も行うようになりました。
1952年、神戸に転居し抽象画家・吉原治良らが主宰する芦屋市展に出品。第8回展に出品した抽象画は吉原に絶賛されました。同年に吉原の設立した具体美術協会に参加し、以後退会までメインメンバーとして活躍しました。
1960年代は海外での活動も増え、70年代には絵本制作に取り組み始めました。80年代90年代と精力的に制作に打ち込みましたが、2011年に亡くなりました。翌年、ニューヨークのグッゲンハイム美術館で展示された、定正監修の作品が遺作となっています。
日本画技法のたらし込みに着想を得て作られた、キャンバスに絵具を流した絵画や、水を用いた立体作品など斬新で大胆な手法が現代美術家として話題を呼ぶ一方、後年は絵本作家としても活躍し、遊び心のある作品を残しています。
斎藤清は1907年生まれ、福島県河沼郡坂下町出身の版画家です。
生まれは会津ですが、4歳の時に北海道の夕張に移住しています。幼いころからイラストを描くのが好きで、24歳で上京してからも広告業をしつつ、独学で油絵を描いていました。
29歳の時、安井曽太郎の木版画『正月娘姿』に感銘を受け、独学で木版画制作を行うようになりました。そうしてできた初めての木版画を同年の日本版画協会展に出品すると、見事入選を果たします。以後、木版画制作へ傾倒するようになりました。
日本の伝統表現に西洋の近代造形を取り入れた木版画技法は、海外でも評価されることとなります。モチーフを世界各地に広げ、独特の構図で表現された木版画を制作する中で、世界中に多くのファンを作ることとなりました。
海外での高い評価を起因として、日本国内でも斉藤清の評価が高まりました。現在でもその唯一無二な作風は、多くの人を虜にしています。
繊細な筆使いで柔らかく描かれる女性像。洋画の中に日本的な優美さを取り入れた女性を描いたのが、洋画家・岡田三郎助です。
1869年、佐賀に生まれ、11歳で岡田家の養子になった後、洋画家の道を歩むこととなります。
1894年、明治を代表する洋画家・黒田清輝と出会い、吉田も黒田の白馬会の創設に携わりました。1897年、文部省の留学生としてフランスへ留学、黒田の師でもあった外光派の洋画家・ラファエル コランに師事します。これは後の岡田の作風に大きな影響を与えました。
帰国後は東京美術学校で教鞭を取りつつ制作を行い、1907年には東京勧業博覧会にて一等を受賞しました。
1934年には長年の功績と技能が評価され、帝室技芸員に任命、さらに37年には第一回の文化勲章も受賞するなど、大正・昭和の洋画壇の中心的な人物であったといえます。
ポーラ美術館所蔵の『あやめの衣』に代表される岡田の描く繊細かつ優美な女性像は、洋画の中に日本的な美を落とし込む岡田ならではの作品世界であり、その確かな技術と芸術性は現在も高く評価されています。