昭和の日本洋画界をけん引した画家、小磯良平。現地で学んだヨーロッパの伝統的な絵画技法に、自身の描写力や色彩感覚を調和させた、モダンで気品のある画風が特徴となっています。
小磯は1903年、神戸の旧家に生まれました。外国人居留地のある神戸で、幼い頃から西洋に触れる機会が多かった小磯は、旧制中学校入学後、のちにモダニスト詩人となる竹中郁と出会います。彼の影響もあり、さらに西洋へ関心を持つようになり、1921年に目にした洋画展で、自身も洋画家になることを志します。
1922年、東京美術学校西洋画科に入学し、猪熊弦一郎や荻須高徳などと共に洋画を学びました。1926年、在学中にも関わらず帝展へ出品した『T嬢の像』が驚くべきことに特選を獲得し、一躍その名を画壇に知られる存在となりました。卒業制作では竹中をモデルにした作品を出品し、首席卒業しています。
1928年、フランスへ渡り、竹中とともにヨーロッパ各地を巡り、様々な芸術に触れ、その感覚を磨きました。帰国後は新制作協会の立ち上げなどに参加しますが、戦時中は従軍画家として戦争画を描きました。
戦後は制作の一方で後進の育成にも努め、母校である東京藝術大学で教授として教壇に立っています。長年の功績が認められ、1983年には文化勲章を受章しました。
全国を放浪した画家・山下清。裸の大将としてドラマが大ヒットした影響で、全国的にその知名度も高い人物です。
山下清は関東大震災の前年に東京・浅草に生まれます。震災後の避難先で生死の狭間をさまよったときの影響で、軽い言語障害と知的障害の後遺症が残ってしまいました。
1934年、千葉の養護施設・八幡学園に入園した清は、ちぎり紙細工に出会います。その才能を開花させ、1938年には銀座の画廊で初めての個展を開催しました。
しかし、1940年突如として学園から姿を消し、放浪の旅へと出ます。こうして目にした風景の数々が後に清の題材となりました。1950年代にはその知名度も上がり、「日本のゴッホ」「裸の大将」と呼ばれるようになりました。全国で個展も開催され、当時の皇太子殿下も訪れています。1961年にはヨーロッパも旅行しました。
晩年は東海道のスケッチ旅行や、放浪中に住み込みで働いていた我孫子弥生軒の、弁当掛け紙のデザインを行っています。
1971年、49歳で亡くなりました。
作品は代表的なちぎり紙細工の他に、旅先で描いたペン画などが存在します。色鮮やかな紙細工、点描を駆使してその場の風景を切り取ったペン画は、現在でも高い人気を誇っています。
しかし一方で人気の高さや、ドラマにおいて旅先で絵をプレゼントする姿が影響してか、非常に多くの贋作が存在します。特に紙細工は旅先ではほとんど作らず、残されている作品の多くは遺族の方々によって保管されています。
アンドレ・ブラジリエは、現代フランス絵画を代表する画家です。
1929年にフランスのソミュールで生まれ、その後多くの優れた作品を残されています。
20歳でフランスの名門美術学校であるエコール・デ・ボザールに入学し、画家モーリス・ブリアンションのもとで学びました。1952年のフロレンス・ブリュメンタル賞にはじまり、以降は多くの賞を受賞しており、有名画家として現在に語られるまでの人気を博しました。
鮮やかな色彩と柔かい動きのタッチによる、何処と無く懐かしさを感じさせる画風が特徴です。緑や木々、馬、バイオリンや女性像を好んで描き、抽象的でありながら生命力を感じさせる世界感は、一目見るだけで彼の作品であることがわかるほどのものです。
ブラジリエの作品では、リトグラフを目にする機会が多いと思います。馬の絵が柔らかいタッチで描かれていたら、アンドレ・ブラジリエの作品かもしれませんよ。是非ご自宅に馬の絵のリトグラフ作品が飾ってありましたら確認してみて下さい。
暗色の画面の中に浮かぶ鮮やかな色彩
晩年の作品に多くみられたこの配色が、画家・彼末宏の代名詞といえるものです。
彼末宏は1927年に東京に生まれました。その後北海道に移り、1945年には陸軍士官学校へ進みますが、まもなく志望を転向、東京美術学校の入学試験を受けます。面接試験で画家・梅原龍三郎に告げた志望動機は「小さいころから美術が好きだったから。」しかし、この年の試験では合格できませんでした。翌年再度受験し、梅原に同じ答えを告げます。梅原がどう評価したのかはわかりませんが、この年の試験には無事合格し、梅原の元で絵を学びました。成績は非常に優秀で、1952年に首席で卒業しています。卒業後も学校に残り、油絵科の助手を務めています。また同時期に国画会に出品した作品が、新人賞・国画会賞を獲得しています。この頃の作品はまだ色彩も明るく多色で、シャガールやクレーを思わせるものでした。
1958年、西欧学研究所の後援をうけ、ヨーロッパへ留学します。抽象画最盛期のヨーロッパで彼末も様々な作品を目にしたのではないでしょうか。帰国後の1960年には国画会で会友賞を獲得し、会員となりました。1970年代、高度成長期となり社会が明るくなる中、彼末の作風は暗色が強いものとなっていきます。しかし黒基調の画面の中には透明感があり、浮かびあがる対象の姿は幻想的な仕上がりとなっています。
後進の育成にも積極的で、長年東京藝術大学で教壇に立っています。
奈良の山中で作陶に励む孤高の陶芸家、辻村史朗。我流で作り上げた豪快な造形は、シンプルながら力強さを秘めた作品となっています。
辻村は1947年、奈良県の畜産農家の家庭に生まれます。青年時代に見た大井戸茶碗が彼を陶芸の魅力に引き込み、高校卒業後禅寺で修行した後は、家業を手伝いつつ修練を重ねていました。奈良市水間の山奥に土地を手に入れると、自宅から工房まで全てを自分で建て、以後この場所で作陶に打ち込む事となります。1977年、初めて開催した個展が評判となり、翌年には大阪三越で個展が開催出来るほど有名になりました。90年代にはその名声は海外まで広がり、ドイツやイギリス、アメリカでも個展を開催しています。
誰にも教えを請わず、また弟子をとることもなかった辻村ですが、元総理大臣で現在は陶芸家として活動している細川護煕だけには、その技術を教えています。
また、あまり知られていませんが、陶芸以外に油絵も制作も行っています。
戦後日本の洋画界において、その独特な美人画で存在感を示した画家・東郷青児。対象を大きくデフォルメし、淡い色彩と柔らかな輪郭線で描かれる女性像は、従来の美人画の常識を大きく崩すものでした。
東郷青児(本名・鉄春)は1897年、九州・鹿児島に生まれ、間もなく家族で東京へ引っ越します。1914年、青山学院中等部を卒業後、日本橋に画家・竹久夢二が開いた書店で、下絵描きなどの仕事をしていました。同じころ、画家の有島生馬と知り合い、以後有島から絵を学びます。1916年の第3回二科展にて二科賞を獲得するなど、若くして高い技術を持っていました。1921年から7年間、フランスへ渡り、装飾デザイナーとして働く一方で、多くの西洋美術を目にします。帰国後の1931年には二科会へ入会し、以後中心人物の一人となります。
戦後は1957年に日本芸術院賞を受賞し、61年には二科会の会長に就任しました。1976年には新宿に東郷青児美術館が開館しますが、1978年、熊本滞在中に亡くなります。
東郷の描く、伏し目がちでどこか物憂げな表情を浮かべる女性像は、当時の日本社会に大きなインパクトを与えました。その人気の高さから、本の表紙や雑貨品などに採用されることも多く、多くの人々が親しむ作品となったのです。