ステファン・マーティンエアー(Stephan Martiniere)はパリ出身のSF・ファンタジーアーティストです。
同時にアートディレクターやゲームのビジュアルディレクターの顔も持つ、マルチなエンターテイメントアーティストです。長くアニメーションディレクーターを続け、『ウォーリーを探せ』のエピソード監督を務めたことなどでその名を広げています。
ディズニーとの関わりも深く、ディズニーランドやその関連施設などでビジュアルデザインに取り組んでいます。また、ディズニーによってキャラクターを使用した絵画の制作を許可された特別な作家であるディズニー公認作家にも認定されています。
本の表紙画や漫画にも携わるなど、今なお多角的に活躍するアーティストです。
愛媛県生まれの洋画家で、生涯に渡り海と釣りをこよなく愛した作家として知られ、海や森をテーマにした作品を多く描きました。原色で構成されている鮮やかな作風が特徴で、豪快なタッチと、鮮烈な色彩で大胆な配色が融合する作風が印象的です。
1924年に第11回二科展に「静物」が初入選を果たすと、1928年に柘榴社に入会し、第15回 二科展で「夜の床」が樗牛賞を 受章し、翌年の第16回二科展で「The Full Moon」が二科賞を受章し、1933年には二科会会員となります。戦後も二科展に出品を続け、1955年に鈴木信太郎らと同会を退会し、同志らと一陽会を結成し主要作家として没年まで制作を続けました。
今回の作品は、野間さんの作品の中でも特に人気のある『薔薇』が描かれた作品で4号と少し小さめではございますが、絵の状態、サイン、シールなど含め上記の評価額となりました。状態によっては評価額が変動致しますのでご了承下さいませ。
アンドレ・ヴィギュド(Andre Vigud)は1939年にモロッコに生まれます。
彼の作品には世界中にファンがいますが、日本では知らない方も多いかもしれません。
世界各地で個展を開催し、日本でも1985年に個展を開催しています。
そんな彼の経歴はあまり語られていませんが、1970年代後半からその名を徐々に広げていきます。
ナントやツールといったフランス、ニューヨークやそして前述の通り日本でも個展を開催し世界へと名を広げていきます。
日本での個展開催の前年である1984年には東京芸術祭近代芸術賞銀賞を受賞、また1986年にはニューヨーク国際芸術祭近代芸術賞銅賞を受賞するなど世界に認められた画家と言えるでしょう。
彼の絵の特徴は油彩画法を用いたシンプルな構図にシンプルな色使いというところでしょうか。
余分なものが無い彼の絵は、見るものの心にスッと入り込んでくるかのように、私たちの目を惹きつけます。
そのシンプルさ故に様々な場所に飾っても溶け込める絵画。
それが、アンドレ・ヴィギュドと言えるでしょう。
丁子紅子さんは今注目の若手現代日本画家です。
1991年に埼玉県で生まれた丁子紅子さんは、繊細できめ細かなタッチ感、透き通るような透明感で見る者を釘付けにするデザインを描く作品が特徴的です。主に女性を描いています。女子美術大学絵画学科日本画専攻卒業後、第36回現代童画展奨励賞をはじめ、以後様々な賞を受賞、また、2012年から個展も展開し、多岐にわたって活躍されています。
丁子紅子さんの作品は、なんといっても繊細なタッチ感と、見る人それぞれの気持ちを取り込めるようになるべく色を使わないように描く、というところが特徴的です。髪の一本一本がまるで生きているかのように描かれ、透き通るような無表情の女性に引き込まれ、見る人の感情が入り込める作品を世に出されています。
平田ゆたかは単身イタリアに渡り独学で絵を学び、イタリアの陽光を描き続け、日本国内のみならずイタリアでも高く評価されている洋画家です。
1944年に香川県に生まれ、1974年の30歳の時に単身イタリアへ渡り1975年に国立ローマ・アカデミアに入学し彫刻家であるファッチーニに師事します。
1980年のアルバトロス画廊での個展をきっかけに、同年国際ビエンナーレ展で「ポンテ・ヴェッキオ賞」を受賞しました。
1981年には「オスカー絵画賞」を受賞しイタリア国内で知名度を上げていき、現在もイタリアや日本を中心に個展を開催しています。
画像のお品物は平田ゆたかが得意とするイタリアの陽光が描かれた代表的な作品で、陽光と海の青色がとても美しいお品物となっております。
福王寺法林は山形県出身の日本画家です。
1920年に生まれ、現在まで多くの絵画作品を残されております。
幼い頃に父親と猟に出掛けた際に銃が暴発し、左目の視力を失ってしまう事故に見舞われますが、それにより生来の負けず嫌いからか、よりたくましく生きるきっかけになったと言います。
絵を描くことが好きだった法林は小学2年にして狩野派の上村廣成氏に師事し、16歳で画家を目指して上京します。
貧しい下積み時代を過ごしていた法林は21歳の頃に戦争へと駆り出されることになりますが、大金をはたいて岩絵具を買い「必ず生きて帰ってこの絵具で絵を描く」と誓って中国へ出征します。戦争中に壮絶な日々を過ごしながらも26歳で復員した法林は、献身的な愛子夫人の応援もあり、第34回日本美術院展覧会で初入選を果たします。その後も奨励賞や白寿賞を受賞するなど、画壇に名前を残すようになりました。
代表作である「ヒマラヤ」をテーマにした作品群は東京三越で行われたヒマラヤ展で展示された絵がネパールの王に気に入られたことがきっかけで始まりました。
8000m級の山々の過酷な環境に何度も訪れ、命を落としかけながらも描き続けた作品は、まさに法林の命が刻まれていると言っても良いほどの大作となっています。