田中阿喜良(本名:中島阿喜良)は1918年8月20日8月20日に大阪府で生まれた洋画家です。
彼が生まれた時代は第一次世界大戦の終わり。
この後に世界恐慌が発生し、第二次世界大戦へと向かっていく、軍国主義、全体主義という思想が強まっていく時代でした。
1937年に大阪府立高津中学校を卒業(19歳)し、38年に姫路高等学校入学を果たしますが、40年中退し京都高等工芸学校図案科に入学します。
1943年に同校を卒業しますが、時代はまさに第二次世界大戦の真っただ中です。画家を志しながらも応召し、無事に帰国した後、1947年の第2回行動美術展に「庭」を初出品し、彼の画家としてのキャリアがスタートします。
29歳のことでした。
その後、国内の様々な展覧会に出展し、数々の賞を受賞し、戦中派世代の旗手として注目を集めます。
1958年には外国美術の紹介が活発になったことから触発され、フランスへと旅立ちます。翌年にはサロン・ドートンヌに出展し、同年フランス・ビルヌーブ1等賞を受賞します。その後も多くの賞を受賞し、1961年にサロン・ドートンヌ会員となるなど、海外でもその実力を認められるようになりました。
田中阿喜良の独特な画風は、この少しあとに定着したようで、以降は田中阿喜良と言えば、「土のついたジャガイモのようだ」と表現されたような独特な画風になります。
生活の拠点はフランスでしたが、出展意欲は高く、世界のみならず日本でも多くの展覧会に出展、受賞するほか、1967年から3回に渡り日本でも個展を開くなど、多くの絵画を手掛けます。
1975年には神奈川県立近代美術館で「田中阿喜良展」が開かれるなど、国内外を問わず注目を集めた画家でしたが、1982年6月10日にパリにて心筋梗塞で亡くなります。享年63歳。
彼の作風は荒目のカンバスとビニール系の水性塗料を用いたマチエルを持つ白い下地に、パリの庶民を描くというような独特なものです。
特に作風が定着した晩年は、農婦やパイプを持つ男性など、パリを生きる人々、とりわけ年配の方々をモデルとした作品が多くあります。
彼自身よりも年配のモデルということは、第二次世界大戦という時代を、最も過酷な場の一つであるフランスという国で生き抜いた人々ということです。
同じ時代を生きた先達に対し感じるもの。
そこに何が込められているのかは分かりませんが、黒い色調の作風ながらどこか優しさを感じさせるこの彼の画風にその想いは宿っているようにも思います。
昭和20年代の初めごろ、農業をしながら木彫に励んでいた初代山田昭雲。
そこへ訪ねてきた棟方志功に版画を勧められた際、彫刻刀で彫り進める棟方とは違いノミを金槌で叩きながら刻む様子に「叩き彫り」という表現をされた事で「叩き彫 山田昭雲」が生まれました。
とにかく地道に、細い線も小さな文字も、ひたすらノミでコツコツと叩いて彫るという方法が棟方にとっては新鮮だったのかもしれません。
二代目山田昭雲は、仏師初代の長男として1925年(大正14年10月10日)岡山県勝田郡に生まれ、旧制津山中学松戸高等航空機乗員養成所を卒業後、終戦を機に日本原の開拓地へ入植し、叩き彫を始めます。
1967年に第一回叩き彫昭雲展を京都で開き、 以後全国各地で200回余の「叩き彫昭雲展」を開きました。
昭和33年に離農して故郷へ帰り彫刻に専念し、昭和55年には日本原の元開拓地の一隅に工房を建てました。
二代目は叩き彫とはどんな掘り方かとよく尋ねられたそうです。その際は「コツコツとリズミカルに彫るのです」「師の門をたたくという気持ちなのです」また、「世の人々に問うという仕事なのです」と答えていたそうですが、これらは全て、初代の教えだったそうです。
現在は叩き彫三代目、尚公により祖父の作風を今に伝え続けられています。
井上稔は1936年4月16日、京都市に生まれた日本画家です。
中村大三郎の弟子となり、日本画を学んで徐々に頭角を現していきます。
井上稔の影響かどうかは分かりませんが、兄である野々内良樹(1930~2009)ものちに日本画家となり、弟の野々内宏(1938~)も日本画家になります。
三兄弟が皆日本画家という家族も珍しいのではないでしょうか。
1954年4月、京都学芸大学(現京都教育大学)特修美術科日本画に入学、1957年の第13回日展に『校倉』初入選。1959年3月に卒業後、4月に同専攻科(現京都教育大学大学院)に進み全関西美術展に『風景』出品、佳作賞受賞。
兄良樹、加藤美代三、下保昭、福本達雄、三谷青子らとともに朴土社を結成しています。
その後日展や京展での多数入選、受賞などを経て、2011年1月6日~3月6日には奈良県立万葉文化館で「井上稔展-奈良に魅せられて-」を開催、作品56点を展示。3月6日、奈良県立万葉文化館にて美術講演会の講師をつとめています。
渡辺武夫は出生地が東京都墨田区、出身地が埼玉県浦和市の洋画家です。
幼少期に東京都墨田区から埼玉県浦和市に移り住み、現代での高校2年生の時には画家になる決意を固めて、東京美術学校に入学をします。在学中である1938年に光風会展に出品した作品にて受賞をしました。
25歳の時、光風会賞と新文展で特選を受賞し、若くして素晴らしい作品を世にだし、このころは人物画を描いてきました。
1955年にヨーロッパ旅行に行き、現地の風景と触れ合う事で景観の美しさを感じ、風景画への路線変更をしました。帰国後には、「渡辺武夫滞欧作品展」での留学で培った成果発表をしました。
1973年に作品「カーニュの好日」にて内閣総理大臣賞を受賞し、1985年には「シャンパァニュの丘」にて日本芸術院賞を受賞いたしました。その他にもとても多くの賞を受賞し、評価されてきました。
また、美術教育にも従事していました。1947年から1951年までは東京美術学校師範科講師として、1951年からは埼玉大学教育学部美術学科講師、1966年から1973年まででは女子美術大学洋画科講師を務めていました。多くの活躍をされてきましたが、2003年に死去致しました。
遠藤昭吾は、東京都生まれの洋画家で、川端画学校、阿佐ヶ谷洋画研究所で油彩画の基本を学びました。川端画学校は1909年(明治42年)に東京都小石川下富坂町に日本画家の川端玉章が創立した私立美術学校です。太平洋戦争の最中に廃校となるまで著名な日本画家・洋画家など多くを輩出しています。その中には小松均や映画監督として有名な黒沢明などが名を連ねています。
遠藤昭吾が描く主な作品は風景画です。昔ながらの自然の風景から、都会の中に残る貴重な自然風景を描いており、光を巧みに利用した見事な陰影が印象的で、まるでそこに本物の風景があるような錯覚を起こしてしまうような作品が多いのが特徴です。
自然風景を描き続けた遠藤昭吾は、自然の風景をモチーフとした写実的な作品を描く集団、新自然協会を設立し、作品発表の場としていました。この新自然教会の開催する超自然展に、第一回から第十回展まで毎年出品しました。
発表の場はそこだけではなく、日本洋画壇新鋭作家展への出品、銀座の画廊での個展などで作品の発表をしてきました。
1978年にはロンドンで個展を開くなど海外に向けても勢力的に活動を行いました。
自然を愛し、絵を通して豊かな自然を後世に伝えようと尽力した洋画家遠藤昭吾は、2008年にこの世を去っています。
イシヤマ マリオ(石山毬緒)
イシヤマ マリオさんは、1944年生まれ、福島県喜多方市出身の画家になります。
画家の中では大変珍しく、47歳の時に画家としての活動をスタートさせました。
それまでのイシヤマ マリオさんは、東映動画株式会社にて数多くの長編アニメーション映画やテレビアニメーションの製作に携わっておりました。
関わった製作作品は、宇宙戦艦ヤマトや魔法使いサリー、銀河鉄道999など有名な作品ばかりです。
同期に宮崎駿さんがいるなど、日本アニメ界の礎を築かれた方でもあります。
少年時代から夢であった画家になるために、30年近く務めた会社を退職し、アニメーション制作で培った技術と感性を活かして遂に画家として活動し始めたのが1992年のことです。
イシヤマ マリオさんの作品は柔らかく温かい雰囲気が特徴的です。
生まれ育った喜多方の景色が忘れられないというイシヤマ マリオさんの世界観は、花に溢れ、動物や木々、山々が美しく描かれています。
童心を思い出させてくれるようなイシヤマ マリオさんの作品は、今後も多くのファンを魅了していくことでしょう。