天野善孝は静岡県静岡市出身の現代アート作家・イラストレーターです。
1967年にタツノコプロに入社し、「タイムボカン」シリーズのキャラクターデザインを手がけました。担当したキャラクターを上げればキリはありませんが、代表となるところでは「ガッチャマン」「ヤッターマン」「みなしごハッチ」など多くの有名作品を手掛けていました。
1982年にタツノコプロからフリーランスとなりSFやファンタジー系のイラストを手掛けることが多くなります。独立後初期の作品は夢枕獏の「キマイラ」や菊池秀行の「吸血鬼ハンターD」などが挙げられます。
1987年にはスクウェア(現スクウェア・エニックス)に参加し「ファイナルファンタジー」シリーズのキャラクターデザインを手がけたことでさらに注目を集めました。ファイナルファンタジーシリーズにはⅥまではメインで関わってきましたが、それ以降は役職を辞任し、原案やイメージイラストといった形の関わり方となっています。
タイムボカンシリーズのようなコミカルな画風から、ファイナルファンタジーシリーズのようなSF要素のある幻想的な画風も手掛け、両方の面で大きな人気を集めています。
ゲームやアニメの人気と共に、日本だけでなく海外でも高い支持を受けており、ニューヨークやパリ・ロンドンなどでも個展を開き、成功を収めております。
20世紀最後の印象派と呼ばれているリャドは、1944年にスペイン・カタルーニャ州のバダロナで生まれました。
1955年頃からバルセロナのアカデミーで絵を描き始め、その後はバルセロナのサン・ホルヘ高等学校で絵画を学び、在学中に多数の賞を受賞し19歳で助教授に任命されるなど、その経歴はそうそうたるものです。
1968年に自然の美しさにひかれ、マジョルカ島パルマにアトリエを設置します。 1977年には絵画学校「地中海自由学校」を創立。 1988年には、各分野で最も活躍した人物に贈られる「パーソナリティオブザイヤー」に選ばれました。この賞をスペイン画家が受賞したのはミロ・ダリに続き史上3人目の快挙でした。
1990年には日本で個展を行い、そこでリャド自身初のシルクスクリーン作品を発表しました。そうして右肩上がりに人気を高めていた1993年。病気により突然この世を去りました。47歳という若さでした。
リャドの作品は、絵の具を叩きつけるようにして飛沫を飛び散らせ、ダイナミックに見せる「スプラッシング」という手法が使われています。しかしながら荒々しさの中には精密さを兼ね備えており、離れて見ると穏やかな風景画に様変わりします。
スプラッシングの手法など荒々しさは原画でなければわからないもので、原画で感じる立体感は迫力があります。
著名な作家の原画といえば期間限定の原画展などでしか見れないイメージですが、リャドの作品は熱狂的な1ファンによって集められており、個人で開いた美術館(東京)で展示されています。
機会があれば是非訪れてみてください。
山口華楊は京都府中京区の出身です。
幼い頃から粘土や筆を使って動物を写すことを好み、明治45年に小学校を卒業後、岸竹堂や竹内栖鳳の弟子である西村五雲に入門しました。
病弱だった師・五雲の勧めにより、大正5年に京都市立絵画専門学校別科に入学し、同年の第10回文展に初入選を果たしました。その後、昭和2年および昭和3年には、2年連続で帝展において特選となるなど、官展系の展覧会で活躍しました。
山口は、師である五雲や栖鳳から受け継いだ円山・四条派の写生の伝統に、絵画専門学校で学んだ近代西洋画や革新的な日本画の知識を融合させ、新しい時代にふさわしい花鳥画を創出しました。そして、「黒豹」に代表されるような、近代的な構成を持つ独自の動物画を完成させました。
江戸期の京都で隆盛を誇った日本画流派である円山応挙を祖とする「円山派」。山口素絢は応挙の弟子として円山派を代表する絵師「応門十哲」にあげられる人物です。
美人画を得意とし、優美な女性像を描き人気を博しました。一方花鳥画や山水図なども多く描いており、自身の出版物を通し円山派絵画の普及を助けています。
洒落本(遊郭などでの遊びについて書かれた通俗小説)や医学書の挿絵なども担当し、当時珍しい西洋オランダの絵画も直接目にしています。
出版物は寛政年間以後に多く、『倭人物画譜』、『素絢画譜』、『素絢画譜草花之部』、『素絢山水画譜』などがあります。
残されている作品数も多く、京都国立博物館、根津美術館などの国内有名館の他、大英博物館、ボストン美術館など海外の著名な博物館・美術館でも見ることができます。
日本におけるガラス工芸の先駆者である岩田藤七、その長男として自身も父と同じ道を進むことなったのがガラス工芸家、岩田久利です。
久利は1925年、東京美術学校を卒業してまだ間もない藤七の子として生まれました。父と同じく東京美術学校に進み、工芸部図案科で学びました。在学中に日展で初入選を果たし、以後も出品を続け、第11・12回の日展で2年連続特選という快挙を成し遂げています。その後は日展審査員をつとめる一方、日本ガラス工芸会を設立、ガラス工芸の振興にも尽力しました。
1976年の第8回改組日展にて文部大臣賞、1982年日本芸術院賞を受賞するなどの実績を重ね、1979年には紺綬褒章も受章しています。
若き頃より様々な分野の文化に触れ、独自の世界を作り上げた久利の作品は、緻密な技法を使いこなし、不透明な色ガラスを大胆に用いるなど日本のガラス工芸に新たな風を起こしました。
乾山は寛文3年(1663年)京都の富裕な呉服商の三男として生まれました。尾形と聞いて尾形光琳が頭に浮かぶ人も多いと思いますが、その尾形光琳の弟が尾形乾山です。派手好きな性格の光琳と対照的に、乾山の性格は穏やかで書物や学問を愛する落ち着いた芸術家でした。それは作品にも表れ、乾山の作品は慎ましさが感じられ、親しみやすさや温かみのある印象を持ちます。
乾山は野々村仁清の元で陶芸を学び、37歳の時に京都の鳴滝に開窯します。乾山には多くの名前がありますが、陶工としての名である「乾山」が一般的です。その名前の由来となったのがこの鳴滝の地です。乾は北西を意味し、都から北西に当たるこの地から陶工の乾山と命名されました。
50歳の頃には京都の二条丁子屋町に移住し、多くの作品を手がけました。この頃には乾山が器を作り、兄の光琳が絵付けをする兄弟合作の作品も多く生まれました。
70歳の頃には江戸に移り住み陶芸の指導を行うほかに、絵画の修練を重ね絵師としても才能を発揮し始めました。高齢ながら絵師としての才能を開花させるなど、穏やかな性格の乾山は芸術においては強い気持ちをもっていたことが伺えます。乾山の日本画は陶芸作品と同じで、慎ましさと親しみやすさの中に乾山の独創的な芸術性が溢れる作品が多く、国内外を問わず多くの好事家に愛されています。