ルイ・イカール

アールデコ時代に活躍したフランスの画家、ルイ・イカ―ル(1888年~1950年)。
アールデコとは1910年~1930年代にパリを中心として栄えた装飾様式のこと指します。
アールデコと比較されるものとしてアールヌーヴォーがあります。
アールヌーヴォーは19世紀末から20世紀初頭にかけてヨーロッパで流行した美術様式です。
植物や昆虫といった有機物をモチーフが多く自然な曲線や局面を用いた美術様式で、ジャポニズムも取り込んでヨーロッパを席巻しましたが、第一次世界大戦後はその装飾性の高さから大量生産に向かず、廃れてしまいます。
その後を引き継ぐように、アールデコが登場します。
アールデコはシンプルで合理的な幾何学模様をはじめとした、直線的、記号的な表現が特徴です。
大量生産と美術が組み合わさったアールデコという時代において、ルイ・イカールは多くの銅版画作品を残しました。
ルイ・イカ―ルは華やかな女性たちを繊細なタッチで表現します。そして第一次世界大戦を生き抜いた彼自身の戦争観を元にエッチング作品を多く生み出しました。
ルイ・イカ―ルの描く作品は、妖艶な魅力を放つ女性が多く、植物を添えて季節観表したり、動物と戯れる様を描いたり、女性の柔らかな体を煙草の煙で表現しておりました。
これは生涯「女性」をテーマにしたルイ・イカ―ルならではの特徴であり、現在も多くの人々を魅了していることは間違いないでしょう。

前川 強

前川 強(まえかわ つよし)は、前衛芸術グループである『具体美術協会』に属する日本を代表する抽象画家、美術家の一人である。
1959年より具体美術協会の創設者である吉原治良に師事。
織りの粗い麻布(ドンゴロス)で『ひだ』を形成し、着色するというユニークな手法で絵画の制作をした。この作品が吉原治良に高く評価をされ、第8回の具体美術展に出展、1963年には具体芸術協会に入会をする事となった。
その後、前川 強は、具体美術の代表作家として、松谷武判・向井修二と共に名前のイニシャルから「3M」と呼ばれ、1966年には、グタイピナコテカにて「3M」による3人展を開催をした。
1972年には師である吉原の死去をきっかけに『具体美術協会』が解散されるが、前川は、ミシンで細かく縫った布(リネン)による技法で絵画の制作をし、1982年には「現代日本絵画展」大賞を受賞、その後も国内で多くの賞を受賞し、偉大な功績を残した。

南 桂子

南 桂子(みなみ けいこ 1911年2月12日-2004年12月1日)富山県射水郡出身の版画家です。詩的な作品が特徴的な画家です。南は生まれてすぐに母親を亡くしており、12歳の頃には父親が急死したために若くして親族によって育てられました。終戦後1945年に上京。佐多稲子の紹介で作家の壺井栄に童話を、洋画家の森芳雄に油絵を学びました。1949年に夫の版画家である浜口陽三と出会います。この出会いにより1954年パリに渡り浜口と暮らします。40歳を過ぎたころから銅版画の世界に入り、ジョニー・フリードランデル版画研究所でアクアチントを学びました。1956年に「風景」がフランス文部省に買い上げられたり、ニューヨーク近代美術館のクリスマスカードに採用される。またユニセフのグリーティングカードやカレンダーにも作品が採用されたことから世界でも注目されていたといえます。

上原 古年

 上原古年は梶田半古および松本楓湖(ふうこ)の門人です。1877年、東京浅草に生まれの版画家、日本画家です。初め梶田半古に師事した後、松本楓湖に師事して日本画を学んでいます。岡倉覚三(天心)に招かれて5年間、日本美術院に勤務しました。日本絵画協会・日本美術院連合絵画共進会などに作品を出品しており、また、絵画審査員に嘱託として勤め、宮内省や外務省の用命を受け、作品を制作しています。
 版画はやや寡作で、新版画に属する1928年制作に渡辺版画店から出版した木版画「道頓堀」のほか「春日の閑清」や「早春漁村」などといった穏やかな風景画及び美人画が見られます。1932年4月、渡辺版画店の主催によって行われた第三回現代創作木版画展覧会に「道頓堀(夜)」、「残灯」の2点の作品を出品しています。作風は穏やかな風景画が得意としています。

小村 雪岱

 小村雪岱は埼玉県川越市生まれの大正から昭和初期の日本画家、版画家、挿絵画家、装幀家です。1908年、東京美術学校日本画科選科卒業します。1914年、泉鏡花『日本橋』(千章館)の装幀を手がけ、以後、鏡花本のほとんどの装幀をまかされる。また、水上瀧太郎や久保田万太郎、里見弴、昭和にはいってからは邦枝完二や長谷川伸、子母澤寛ら、大衆小説作家らの著書の装幀を多く手がけています。挿絵画家としては邦枝完二の新聞連載小説「おせん」や「お伝地獄」で確固たる地位を築き、舞台装置家としては守田勘彌「忠直卿行状記」を嚆矢として、中村歌右衛門や尾上菊五郎の舞台の装置を多く手がけました。装幀、挿絵、舞台装置と三つの分野で才能をいかんなく発揮しました。

山本 鼎

 山本鼎は愛知県岡崎市出身の洋画家です。東京美術学校洋画科在学中、級友森田恒友と常に首席を争つた位で、早くから油彩技術には頭角を現し、渡欧後は一そう優れた技術を示し、院展洋画部、春陽会、官展等で活躍しましたが、画風からいへばアカデミツクな系統に立つ作家でした。又明治の末、創作版画の運動を起し、のち日本創作版画協会を結成、現代版画発生の端緒を作つた外、欧州留学後は農民美術や自由画運動を起し、多方面に功績を残しました。然し、洋画家として最後迄油絵を描きつづけた人で、晩年も尚「時化の朝」などの濶達適確な描写による優れた代表的作品を残しています。

緑和堂では、山本鼎の作品を買取中でございます。売却を検討されたい作品がございましたら、ご気軽にご相談ください。

長谷川 潔

 長谷川潔は神奈川県横浜市に生まれの版画家です。銅版画の巨匠です。日本とフランスの両国で活躍しました。1911年頃に黒田清輝の葵橋洋画研究所に入り素描を学びました。本郷洋画研究所で岡田三郎助、藤島武二に油絵を学びました。 …

寺島 龍一

どこか異国情緒漂う女性の人物画で知られる寺島龍一。一方で幼児向けの絵本や図鑑の挿絵を描くなど洋画家と絵本作家という2つの顔を持つ人物でした。 寺島は1918年に東京築地で生まれます。千葉や宇都宮に住んだ後、川端画学校で絵 …

菅 楯彦

「浪速の絵師」と呼ばれた日本画家で関西画壇の長老と呼ばれていた人物として有名なのが菅楯彦です。 鳥取県に生まれた菅楯彦は武家社会の崩壊により日本画家であった父が絵で生計を立てることにしたことがきっかけで生後間もなく大阪に …

山口 華楊

山口華楊は京都府中京区の出身です。 幼い頃から粘土や筆を使って動物を写すことを好み、明治45年に小学校を卒業後、岸竹堂や竹内栖鳳の弟子である西村五雲に入門しました。 病弱だった師・五雲の勧めにより、大正5年に京都市立絵画 …

丁紹光

丁紹光(ティンシャオカン)は中華人民共和国出身の画家であり、国際派現代中国絵画の大巨匠です。 1939年に中国陝西省に生まれた丁紹光は1962年に北京中央美術工芸学院を最高成績で卒業し、昆明雲南芸術学院にて教授を務めまし …

三木 翠山

  三木翠山は大正時代から昭和時代にかけての京都の日本画家、版画家です。兵庫県加東市の出身で美人画家として名を馳せた三木翠山。竹内栖鳳に師事した後、「祇園会」や「鏡」、「維新の花」など華やかで気品のある作風により人気を博 …

斎藤 清

斎藤清は1907年生まれ、福島県河沼郡坂下町出身の版画家です。 生まれは会津ですが、4歳の時に北海道の夕張に移住しています。幼いころからイラストを描くのが好きで、24歳で上京してからも広告業をしつつ、独学で油絵を描いてい …

川上 澄生

川上澄生(かわかみすみお)は、神奈川県出身の版画家です。代表作「初夏の風」はエメラルドグリーンの色彩が美しい作品で、美術界の巨匠「棟方志功」が版画家になる事を決意したきっかけの作品として知られています。 川上澄生が初めて …

川瀬 巴水

日本各地を巡り、旅情あふれる四季折々の風景版画作品を数多く発表した版画家・川瀬巴水。吉田博や伊東深水と並び、新版画家の中心人物となっています。 巴水は1883年、東京・芝に生まれます。若き頃から絵を学び、25歳で家業を親 …

吉田 博

まるで目の前にその情景が広がっているかのような色鮮やかな風景版画。時には日本を飛び出し、当時まだ珍しかった海外の風景も描いた版画家、吉田博。イギリス王室のダイアナ妃も愛した彼の版画は、今なお世界で高い人気を誇ります。 1 …

上村 松篁

上村松篁は日本画の巨匠である上村松園を母に持ち、上村松篁も花鳥画の最高峰と言われた作家です。 京都に生まれた上村松篁は、幼いころより母・上村松園が絵を描いていたことも影響して自然と画家を志すようになります。しかし、松園は …

上田 臥牛

昭和初期から平成にかけて活躍した日本画家の一人に上田臥牛という方がいます。 1920年に兵庫県に産まれた上田臥牛は川端画学校を卒業後に小林古径に師事し、端正かつ清澄な画風を学んでいました。 その後、1950年代にアンフォ …

小倉 遊亀

滋賀県出身の画家で有名な人物といえばなんといっても小倉遊亀でしょう。 小倉遊亀は女性初の日本美術院理事長となってり105歳でお亡くなりになるまで精力的に絵を描き続けた情熱は多くの人を魅了しました。 小倉遊亀の作品は身近な …

西村 龍介

点描で描きだされるヨーロッパの古城。二科会の巨匠、西村龍介が好んで描いた画題です。 西村は1920年、山口県小野田市に生まれました。上京したのは1936年のことで、2年後に東京美術学校に入学しました。このとき入ったのは洋 …

猪熊 弦一郎

常に新しい絵を追求し続けた洋画家、猪熊弦一郎。具象画から抽象画、ときには大型の壁画まで様々な作品を描き続けた昭和日本を代表する人物です。「絵を描くには勇気がいる」という言葉を口癖にしていた彼は、その勇気で常に新しい挑戦を …