岡崎雪声は、京都府伏見区で釜師・岡崎貞甫の子として生まれました。本名は庄次郎です。大阪で釜師の修業を積んだ後、21歳で上京し、鋳金家の鈴木政吉に師事しました。
明治22年(1889年)には、その年のパリ万国博覧会に出品した作品が2等賞を受賞し、その名を高めるきっかけとなりました。その後、岡倉覚三(岡倉天心)と知己を得て、明治23年(1890年)に東京美術学校(現・東京藝術大学)の鋳金科教師となり、明治29年(1896年)には教授に昇進しました。
岡崎は、分解鋳造法による大型鋳造を得意とし、銅像や建築装飾などを手がけました。代表作には、上野公園の「西郷隆盛像」や皇居前広場の「楠木正成像」などがあります。また、1903年には鋳金家協会の設立に尽力し、日本の鋳金界の発展に大きく貢献しました。
引間二郎は北海道八雲町出身で、元々は農家として従事していましたが、不慮の交通事故により熊彫師に転向します。
「八雲」とは、熊彫発祥の地とも言われている八雲町からきています。1931年頃から品評会で評価の高かった木彫りの熊に対して目視で分かるよう、足の裏に「八雲」の焼印を入れ販売され始めたところから、「八雲の熊彫」という一種のブランドが確立されました。
熊彫は主に2種類の彫り方があります。かなりデフォルメが効いた柔らかさを感じつつもメリハリのある「荒彫り」と、日本画をモチーフにしたと言われている優雅さある毛の流れを繊細に表現する「毛彫り」です。引間はそのどちらも手掛けており、奥深さも垣間見える野性味あふれる作風が特徴的です。
大木平蔵(おおき へいぞう)は、京都・丸平大木人形店の伝統的な当主が襲名する名跡であり、明和年間から続く老舗京人形司における最高峰の人形作家です。
明和年間(約250年前)に創業され、現在も七代目まで続く伝統の技術と美意識を受け継ぐ京人形の代表的な作家です。
明治23年(1890年)には内国勧業博覧会で受賞、さらにパリ万国博覧会では金賞を受賞するなど高く評価されました。
写実的で緻密な造形が特徴で、伝統的な有職故実に基づく衣装や小道具の細部まで忠実に再現された作品が多く、武士や宮廷を思わせる風格があります。
特に五月人形や武者人形は、甲冑や顔の表情にこだわり、まるで実在の武将のような迫力を醸し出しています。
フランス出身のマルセル・デュシャンは、20世紀の美術界において最も影響力を与えた芸術家の内の1人として挙げられます。
1887年にフランスで生まれたマルセルは、幼少期の頃から絵を自ら描くなど美術の世界に触れていました。1912年、所属していた団体と意見がすれ違い、それまで制作していた油絵の製作を放棄します。この頃に世に出した油絵とは別の作品が、アメリカなどから反響があり、その影響もあり、以降活動拠点をアメリカに移します。
その後、既成の物をそのまま用いたり、あるいは若干手を加えただけのものを1つの作品として公表した「レディ・メイド」という作品を数多く発表します。それらの作品を見た上で、「芸術とは何か?」という疑念が生まれ、それまで主流だった「目で見る芸術」から「観念の芸術」へと転換させるきっかけを作り出しました。これが「現代アート」という概念のスタートとも言えます。
今現在、多種多様な現代アート作品が多く存在し、美術作品と関わりのある緑和堂でも、「現代アート」というカテゴリーに分類される数多くの作品と出会ってきました。マルセルが作り上げた芸術の表現は偉大なものであり、これからも発展し続けていく事でしょう。
藤崎 秀胤(フジサキ シュウイン)は、富山県の南砺市出身の彫刻家です。
1959年に彫刻家である父 秀一のもとに生まれ、父親から直々に彫刻を学びます。20歳頃から仏像の制作を行い、30歳を過ぎた頃には寺院に木彫り仏像の納入も行うなど、彫刻家として実力を付けていきます。
そして2010年には、井波の彫刻伝統工芸士に認定されるほどの腕前となります。
井波彫刻は250年以上続く彫刻文化で、日光東照宮などの神社仏閣の彫刻を請け負っているという歴史を持つほどの、熟練の彫刻家たちが技術を継承し続けている文化です。
その技術を受け継いできた彫刻家たちは現在、日展などに作品を出品するなどの幅広い活躍が見せています。
井波彫刻の作品で高い評価を受けやすいお品物としましては、やはり有名作家の作品が人気となります。
有名どころで言えば、横山一夢や川原啓秀の繊細で非常に細かい作品は特に人気です。
また、作風の傾向としては、木造の仏像や獅子などの置物の類が評価を得やすい傾向にあると言えます。
藤崎秀胤の作品では他にも、童不動等のブロンズ作品も人気が高いお品物となっております。
木 内克は、茨城県水戸市出身の彫刻家です。
1892年の6月、代々医者の家系に生まれますが、彼は医師への道ではなく絵の道へと歩みを進めることとなります。
幼い頃から絵が好きだったこともあり、20歳の時に大学を中退して上京、明治時代に活躍した彫刻家・海野美盛の元で彫刻を学びます。
その後、朝倉文夫の彫塑塾に入門し、24歳の時に第10回文展にて初入選、それ以降も何度か入選を果たしました。
29歳の時に留学で欧州を訪れます。その後、ロンドンからパリへと移り、パリの研究所で彫刻を極めていきます。
欧州滞在中には、ギリシャのアルカイック彫刻に傾倒し、自身でテラコッタの技法を修得します。
そして帰国後、その修得した技法を用い、仁科展に数々の作品を出展・受賞しました。
戦後においては、再度欧州に行きブロンズの制作技術までをも会得します。
晩年には大胆にデフォルメされた裸婦像も手がけ、生涯、個性あふれる数々の作品を世に残していきました。
作風としては、エネルギッシュさと豊かな表現が組み合わされ、そこへ生まれたどこか温かみを感じられる風情が特徴的だと言えます。