関武比古は、三代続く銀細工師です。
初代・関武比古は1908年の千葉県勝浦に生まれ、上京を機に打物の名匠である田島勝之師に師事し、銀細工を修行しました。その後、さらに香坂宗廣師のもとで技術を磨き、28歳で独立しました。数年後には太平洋戦争に動員されますが、1948年から再び活発な制作を開始しました。
二代・関武比古は、初代の長男として1936年に生まれました。中学生の頃から父のもとで技術の研鑽に励み、1963年には父と共に「関工芸株式会社」を設立します。現在は三代・武比古監修の下、貴金属美術の伝統工芸品を製作を行っております。
「貴金属美術工芸品を、ひろく人々に」を標語として、伝統工芸の技法に、新しい技術をとり入れて制作されたいくつもの作品は、長らく人々から親しまれています。
1916年群馬県出身の象牙彫刻家の荒巻秀美さんは、繊細な彫りの技術と細かな表現力が特徴的な彫刻作家さんです。秀作展や象牙彫刻展などで数々の賞を受賞されています。
主な作品は象牙や珊瑚の彫刻作家となり、花をモチーフとしたネックレスや帯留めが主流ですが、中には細かな彫刻と高い技術力が表現されている彫刻置物もございます。世に出回る作品数は少なく、二次流通品もすぐに買い手が付くほどの人気作家となります。
年々象牙彫刻の相場は、条約や取り扱う市場が減っていっていることから下降傾向ですが、銘が確認できる作家さんは依然高い評価での取引がなされており、荒巻秀美さんもそのうちの一人です。
今後は象牙や珊瑚の取り締まりが厳しくなっていく一方かと思いますが、美しい彫刻作品は時を超えて、その美しさに魅了されるでしょう。
さらに、宮内庁御物、東京国立博物館・東京藝術大学所蔵品修復などご活躍されていました。
玉野勢三は、大阪府出身の彫刻家です。
パブリック作品として駅前や病院の入り口などに飾られていることもあるので、作品を見たことがある方もおられるのではないでしょうか。
乾漆作品やテコラッタ作品も手掛けますが、多く作られているのはブロンズ作品です。イメージから型取り、鋳造まで、すべて自らの監修のもと行います。
玉野勢三の作品は、子供をモチーフとするものが多いです。自身が四人の子供を抱える父親であり、生活での交流の中からインスピレーションを育みました。
大らかで動きのあるものから、ふとしたしぐさや表情をとらえたものなど、感情豊かな子供の様子が独特な丸みと共に表現されています。
日本において多くの個展が開催されています。最初は1983年の生駒市からはじまり、自身の生まれである大阪を中心に全国で開催されるようになりました。2008年からは毎年開催され、現在でも予定が組まれています。
二上常太郎は、富山出身の蝋型師です。
伝統工芸の街・富山県高岡市で生まれ、斯界に誇る技術保持者の一人として、銅器を愛しその鋳肌に魅せられ、およそ60年の間創作活動を続けて居られました。作品は鍛え抜かれた技法のたしかさと気品、風格で満ち溢れ、観る者を魅惑してやまぬものがあると賞讃されており、人間国宝級の技法として業界からは高い評価を得ております。
蝋型とは、鋳金技法の一種です。まず、中子と呼ばれる鋳物の中空部を作るために生型と別に使われる鋳型を使い、その表面を蜜蠟と松脂を混ぜたもので覆って原型を作ります。その後粘土汁を混ぜた泥を塗り、乾燥させた後、加熱して蝋を溶かして空洞を作り鋳型とします。あとはこれに溶かした金属を注入し、冷めたら型を壊して完成します。
二上常太郎の主とした製作技法であり、銅製の美術品、花器や仏具といったジャンルで多く作品を残されています。
三谷慎は主にブロンズ像やレリーフ彫刻を制作している彫刻家です。
三谷慎は1953年に石川県の輪島市に生まれます。
1976年には東京造形大学彫刻科を卒業後、イタリアに渡り国立ローマアカデミーの彫刻科に入学、1979年国立ローマアカデミーのファッツィーニ教室を卒業し、ダンテ・アリギェーリ国際彫刻ビエンナーレに出品、サロン・ドオトンヌにも出品します。
1981年にはダンテ・アリギェーリ国際彫刻ビエンナーレ招待出品を経て、1982年にローマで個展STUDIO Sを開きます。
1985年には日本橋高島屋・輪島市文化会館で個展を開きました。
その後1988年までイタリアで活動していました。
1988年に帰国して群馬県に移り個展を多数発表、現在も製作活動を続けており、国内のみならず国外からも注目されている人物の一人です。
横山白汀は、明治34年井波町で生まれの木芸家。
日展という日本最大の総合美術展覧会の評議員でもあります。
井波彫刻の名家、横山作太郎の長子として生まれ若くして木芸の道に進みます。そして昭和16年第4回文展に「木目込屏風」が入選それ以来、井波彫刻に美術工芸の価値を底上げし今の歴史的価値、芸術的価値を築き上げた先駆者でもあります。
新日展第2回(昭和34年)、第7回(昭和39年)では審査員をつとめ、昭和45年改組第2回日展「鎮魂歌<漆>三曲屏風」が会員中の授賞として桂花賞に輝きました。
その経歴から井波美術作家協会、現代工芸美術協会、富山会富山県工芸作家連盟の各委員長を歴任しました。井波彫刻においての重要人物です。