青木蓼華は日本の創作木人形作家、いわゆる創作こけし作家の名工です。
1931年に群馬県渋川市に生まれ、27歳の頃から創作こけしを作り始めます。
群馬県は豊かな森林があることから、それを資源として作られる「近代こけし」の名産地として知られています。
青木蓼華は創作こけしを始めるまで日本画を学んでいた経歴を持ち、著名な日本画家の川合玉堂の門下生だった野沢蓼州に弟子入りしています。
言うなれば玉堂の孫弟子に当たり、「蓼華」という名前も元々、玉堂から野沢蓼州へと与えられた画号を青木が賜ったものでした。
彼女自身、この名前に強い愛着があり、創作こけし作家になってからも同じ名で活動を続けました。
1975年に文部大臣奨励賞を受賞すると、その後も通産大臣賞や内閣総理大臣賞といった数多くの賞を受賞していきます。
2013年には厚生労働大臣に表彰された卓越技能者にのみ与えられる「現代の名工」に名を連ねました。
私生活では56歳から始めた弓道で錬士6段を修めたり、事故で右目を失明した後も変わらず精力的に創作活動に励んだりと、パワフルという言葉が大変似合うような女性でもあります。
青木蓼華の作品の特徴として、彼女が学んできた日本画特有の優美さや親しみを感じさせる絵付が挙げられます。代表作である近代創作こけし「雛菊」は、その愛らしさから温もりと癒しを与えてくれるような作品となっております。
他にも、彼女の作品の中で大きさがあり細部まで作りが精巧な創作こけしは、特に評価が高くなる場合がございます。
渡辺雄二は1951年宮城県出身のこけし作家です。
こけしには種類があり、大きく分類すると「伝統こけし」「新型こけし」「創作こけし」「木地玩具」の4種類に分類されています。そのうち伝統こけしは、産地や工人ごとに特徴があり、約10種類に細分化されます。
渡辺雄二は創作こけしの作家となります。創作こけしは系統にとらわれない自由な発想によって作られたこけしの分類系統とされています。
幼少期から「こけし」に関心があったようで、それが長じてこけし作家となりました。父の渡辺正雄はこけしの名工であり、1970年に師事しています。
1978年に全国近代こけし展で文部大臣賞を受賞、1983年には全国こけしコンクールで文部大臣奨励賞を受賞しています。特に全国近代こけし展ではこれ以降、無審査での出品が許可されています。この後も経産大臣などを取っており、活躍しています。
関口東亜は、1942年群馬県に生まれました。
20代の頃からこけし制作を始め、全日本こけしコンクールや全国近代こけし展など複数の展覧会で受賞しています。
実はこけしにも種類があり、大きく分類すると「伝統こけし」「新型こけし」「創作こけし」「木地玩具」の4種類に分類され、そのうち伝統こけしは、産地や工人ごとに特徴があり10~12種類に細分化されます。
関口東亜はこのうち「創作こけし」の作家で、伝統や産地による系統に囚われず自由な発想とデザインの現代的なこけしを制作しています。
複数いる創作こけし作家の中でも、関口東亜のこけしは凹凸が少なく太く安定感があるフォルムのものが多く、ポッと頬を染めたかわいらしい顔立ちが特徴的です。胴体部分の着物の柄も草花や幾何学模様など煌びやかかつ鮮やかなものが多く、飽きの来ない芸術性と癒しを両立させています。
お目にかかる機会がございましたら、ぜひ特徴ある作風を楽しんでみてください。
前島秀章は静岡県出身の彫刻家で、独学で木彫りの作品を制作し続けた作家です。
1939年に7人兄弟の長男として生まれた秀章は、幼少期から絵を描くのが大好きな少年と呼ばれており、当時の作品も静岡県の美術館で見ることができます。16歳の頃、運慶・快慶の作品に感銘を受け、立体作品の制作のきっかけとなり、17歳の頃から独学で制作を始めるようになりました。
家族の反対を押し切り定職に就かず木彫り作品の制作に没頭する秀章でしたが、制作すれど売れない日々が続いた上に、25歳の頃に十二指腸潰瘍で胃を摘出する大きな手術を経験します。一時は辞めることも考えたそうですが「生きることの大切さ」を知り、その喜びを作品に込めるようになります。
初めての個展では8年間の作品を全て出品し大きな評価を得ます。また1977年にはニューヨークで個展を開催、「日本の美」が世界でも受け入れられることを確信し、その後も数多くの名作を世に生み出し続けています。
作風としては笑っている顔や柔和な表情が特徴で「幸福」「天真爛漫」といった言葉がぴったりな作品が多く、若い頃の苦悩から得た「生きる喜び」が込められた無邪気な作品は、前島秀章にしか辿り着けない境地とも言えます。
また独学で学んだ事で、型にはまる事のない作風がそういった表情をより豊かに表現しているのかもしれません。
朝倉文夫は昭和期に活躍した彫刻家です。
1883年、大分県大野郡上井田村村長であった渡辺要蔵の三男に生まれました。
10歳の頃に朝倉家に養子になりますが、高校で3度も落第したこともあり、東京で彫刻家として活動していた兄の長男(おさお)を追って高校を中退、上京します。
その後東京美術大学(現東京芸術大学)彫刻選科に入学、在学中に1200体を超える彫像を制作しました。1908年には第2回文展で『闇』が2等賞(最高賞)を受賞します。この受賞により世間から注目されるようになり、「東洋のロダン」と呼ばれるに至ります。
卒業制作『進化』発表後は朝倉塾を作り、後進の育成にも熱心に取り組みました。塾生には堀江尚志や安藤照などの彫刻家が在籍していました。
1932年には大隈重信十回忌として、現在は早稲田大学早稲田キャンパス内にある大隈重信像を制作しました。
多作で全国各地に作品が残っているほか猫好きでも知られ、自宅で多いときは十数匹を飼い、猫をモチーフにした作品も数多く作成しています。