横山一夢は「日本一の木彫りの町」として有名な富山県井波町の井波彫刻の名門家に生まれます。
幼少期より、木彫工芸の技術を父から教わりながら制作を続け、1941年に第4回新文展に出品し初入選。以後、作品の製作、出品を重ね数多くの賞を受賞し、木彫職人の技術を美術工芸の世界まで引き上げた人物として今でも高く評価されております。
1990年には富山県無形文化財「木工芸木彫象嵌技術」保持者に認定されました。
獅子頭とは昔から万物を一声で威服し、災難を食い止めるとされ、魔除け厄除けとして玄関に飾られたり、結婚、出産、新築祝いには欠かせない縁起物として親しまれているものです。また、獅子頭に限らず、木彫りの鳥や鯉、観音像など多数の作品を制作しております。
平田陽光は1906年に初代平田郷陽の息子として誕生しました。
その後、父である初代平田郷陽に師事を受け人形造りを学んでいきます。
平田陽光の兄である二代目平田郷陽は国の重要無形文化財(人間国宝)に認定されています。
兄の二代目平田郷陽が非常に精巧な生人形と呼ばれる1点物の人形造りに力を入れる中で、兄の郷陽とは違い平田陽光は限られた予算の中で良い物を作る事に力を注ぎ、市販品での高品質な人形造りを目指し活動していきます。
市販品の限られた予算の中でも平田陽光の人形造りの腕前はとても高く素晴らしい技術を持っていました。
平田陽光の作る人形は活き活きとした表情や指先までも精巧に作られた非常に美しい仕上がりとなっています。
また、平田陽光作品の中でも市松人形の人気は非常に高く現在でも高額で取引されています。
昭和から平成にかけて活躍し、白銅や青銅によるレリーフなどの建築空間を飾る手法を開発するなどをして金工の近代化に尽力した蓮田修吾郎という方をご存知でしょうか。
1915年に石川県に生まれた蓮田修吾郎は東京美術学校工芸科鋳金部を卒業後に鋳金家で人間国宝であった高村豊周に師事します。高村豊周に指導を受けながら実在工芸展に出品し入選を重ねていきました。第二次世界大戦後は日展を中心に活躍しており、数多くの賞を受賞して文化勲章を受章しました。
蓮田修吾郎の代表作はなんといっても「四島(しま)の架け橋」ではないでしょうか。この作品は北方領土返還実現への強い意志を表したものであり、その為に建立されたモニュメントです。その後は山梨県清里の森モニュメント「森の旋律」、金沢駅西広場モニュメント「悠颺」などの野外モニュメントといった公共性の高い作品を日本金属造形振興会を拠点として数多く生み出しました。
1857年(安政4年)7月9日~1916年(大正5年)9月24日 竹内 久一(たけうち ひさかず)は、明治時代の彫刻家になります。最初は、多才であった父のはからいで、象牙彫刻家の堀内龍仙の弟子となります。もともと病弱な久一、一家の大国柱だった父が病気を患い生活は貧しかった為、森下町の骨董屋「雅楽堂」主人鉢木雅楽の影響で骨董に目覚め、森下町に魅せを借り、彫刻家として活動しつつ道具屋を始めました。その後、竹内は世界に日本の伝統的木彫芸術を伝えようと行動していたが、当時は西洋における美術の概念と日本の美術作品が馴染めず、特に木彫りと牙彫は工芸品扱いされ、正当な評価を受けることがありませんでした。その後、日蓮宗徒の運動の影響で東京美術学校に雛形の製作依頼があり、明治25年(1892年)8月に銅像が完成。明治1年(1898年)に美術学校騒動が起こり、一時辞職するも復職する。明治39年(1906年)4月4日には帝室技芸員に選ばれます。竹内は、職人というよりは数寄者として知られておりましたが、幸堂得知と研究会を開いたり、淡路椿岳や大槻如電などと交流することで元緑文化について知識を深めるなどし、「玩具博士」と呼ばれた清水晴風とは竹馬の友でもあり、「集古会」などで活動をともするなどしておりました。
西出大三(にしで だいぞう) 1913年6月7日~1995年7月8日(享年82歳)は日本の截金師です。1985年に諸工芸の截金の分野で2人目の重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定されました。
石川県にて生まれ、東京美術学校で彫刻を学びます。在学中に京都の浄瑠璃寺の木造吉祥天立像の模刻を制作する際に台座に施された截金の文様が復元不可能であり金泥で代用したこを聞き、截金の研究に取り組むようになりました。
それ以後は多くの藤原・鎌倉期の仏像や仏画の截金作品を見て回りながら、制作技法や道具などを研究して、独力で復元することに成功しました。
西出大三は元々彫刻家であったため、その経験から造型技術を活かし、動物や鳥類(馬・牛・犬・雀・鶏など)を彫刻し、これらに截金を施す作品を得意としました。さらに岩絵具による彩色、砂子、野毛といった金箔の装飾技法を併用することで、より繊細で美しく華やかな作品を生み出しています。
昭和時代に活躍した世界的な彫金家として有名なのは海野建夫ではないでしょうか。
1905年に東京都に生まれた海野建夫は1921年に吉川霊華に師事した後、東京美術学校に進学して1928年に金工科彫金部を卒業後は研究科に進学をして1931年に終了しました。幼少の頃より芸術的な世界に興味を抱いていたこともあってか、成績は極めて優秀であったとのことです。卒業した後は作品作りに没頭し、1929年に帝展にて初入選を果たしてからは数々の賞を受賞していきます。
そういった功績を評価された結果、1955年には光風会の会員となり1969年には理事に就任し、後進の技術の発展に努めていきます。しかし、そういった功績を残してからも海野建夫は自らの作品作りに研鑽し続けた結果、1967年には内閣総理大臣賞を1970年には日本芸術院賞といった非常に名誉ある賞を受賞されました。
海野建夫の作品の多くは、東京藝術大学美術館に保管されておりますのでご興味のある方やそうでない方でも魅了されるような作品を見ることができるのではないでしょうか。