昭和から平成にかけて活躍し、白銅や青銅によるレリーフなどの建築空間を飾る手法を開発するなどをして金工の近代化に尽力した蓮田修吾郎という方をご存知でしょうか。
1915年に石川県に生まれた蓮田修吾郎は東京美術学校工芸科鋳金部を卒業後に鋳金家で人間国宝であった高村豊周に師事します。高村豊周に指導を受けながら実在工芸展に出品し入選を重ねていきました。第二次世界大戦後は日展を中心に活躍しており、数多くの賞を受賞して文化勲章を受章しました。
蓮田修吾郎の代表作はなんといっても「四島(しま)の架け橋」ではないでしょうか。この作品は北方領土返還実現への強い意志を表したものであり、その為に建立されたモニュメントです。その後は山梨県清里の森モニュメント「森の旋律」、金沢駅西広場モニュメント「悠颺」などの野外モニュメントといった公共性の高い作品を日本金属造形振興会を拠点として数多く生み出しました。
1857年(安政4年)7月9日~1916年(大正5年)9月24日 竹内 久一(たけうち ひさかず)は、明治時代の彫刻家になります。最初は、多才であった父のはからいで、象牙彫刻家の堀内龍仙の弟子となります。もともと病弱な久一、一家の大国柱だった父が病気を患い生活は貧しかった為、森下町の骨董屋「雅楽堂」主人鉢木雅楽の影響で骨董に目覚め、森下町に魅せを借り、彫刻家として活動しつつ道具屋を始めました。その後、竹内は世界に日本の伝統的木彫芸術を伝えようと行動していたが、当時は西洋における美術の概念と日本の美術作品が馴染めず、特に木彫りと牙彫は工芸品扱いされ、正当な評価を受けることがありませんでした。その後、日蓮宗徒の運動の影響で東京美術学校に雛形の製作依頼があり、明治25年(1892年)8月に銅像が完成。明治1年(1898年)に美術学校騒動が起こり、一時辞職するも復職する。明治39年(1906年)4月4日には帝室技芸員に選ばれます。竹内は、職人というよりは数寄者として知られておりましたが、幸堂得知と研究会を開いたり、淡路椿岳や大槻如電などと交流することで元緑文化について知識を深めるなどし、「玩具博士」と呼ばれた清水晴風とは竹馬の友でもあり、「集古会」などで活動をともするなどしておりました。
西出大三(にしで だいぞう) 1913年6月7日~1995年7月8日(享年82歳)は日本の截金師です。1985年に諸工芸の截金の分野で2人目の重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定されました。
石川県にて生まれ、東京美術学校で彫刻を学びます。在学中に京都の浄瑠璃寺の木造吉祥天立像の模刻を制作する際に台座に施された截金の文様が復元不可能であり金泥で代用したこを聞き、截金の研究に取り組むようになりました。
それ以後は多くの藤原・鎌倉期の仏像や仏画の截金作品を見て回りながら、制作技法や道具などを研究して、独力で復元することに成功しました。
西出大三は元々彫刻家であったため、その経験から造型技術を活かし、動物や鳥類(馬・牛・犬・雀・鶏など)を彫刻し、これらに截金を施す作品を得意としました。さらに岩絵具による彩色、砂子、野毛といった金箔の装飾技法を併用することで、より繊細で美しく華やかな作品を生み出しています。
昭和時代に活躍した世界的な彫金家として有名なのは海野建夫ではないでしょうか。
1905年に東京都に生まれた海野建夫は1921年に吉川霊華に師事した後、東京美術学校に進学して1928年に金工科彫金部を卒業後は研究科に進学をして1931年に終了しました。幼少の頃より芸術的な世界に興味を抱いていたこともあってか、成績は極めて優秀であったとのことです。卒業した後は作品作りに没頭し、1929年に帝展にて初入選を果たしてからは数々の賞を受賞していきます。
そういった功績を評価された結果、1955年には光風会の会員となり1969年には理事に就任し、後進の技術の発展に努めていきます。しかし、そういった功績を残してからも海野建夫は自らの作品作りに研鑽し続けた結果、1967年には内閣総理大臣賞を1970年には日本芸術院賞といった非常に名誉ある賞を受賞されました。
海野建夫の作品の多くは、東京藝術大学美術館に保管されておりますのでご興味のある方やそうでない方でも魅了されるような作品を見ることができるのではないでしょうか。
柳原義達は日本を代表する兵庫県出身の彫刻家です。佐藤忠良、舟越保武とともに日本彫刻界をけん引しており、裸婦立像や鳩像などの作品が有名です。
1910年に兵庫県神戸市に生まれた柳原義立は東京美術学校を卒業した後に国画会展を中心に制作活動を行いますが、1939年に同会を脱退し本郷新や東京美術学校の後輩である佐藤忠良や舟越保武らとともに新制作協会・彫刻部を創立し、新制作協会より作品を出展していくようになります。
1952年からはフランスに渡った際に、ジャコメッティやリシェ、マリーニ等の彫刻家の作品に触れたことによって柳原義達の作風は変化していきます。1963年以降には鳩や鴉を扱った「道標」シリーズを制作して独自の境地を開いていくことになります。鳩や鴉といった作品を制作するようになったきっかけとしましては動物愛護協会より鳥の作品を制作してほしいと依頼を受けてから、鳥に大きな関心を受けるようになったからだと言われています。
鳩や鴉といった作品を通して独自の造形表現を切り拓いた柳原義達は戦後を代表する彫刻家となりました。
高田博厚(たかたひろあつ)は、明治33年(1900年)8月19日、矢田郷村(現石川県七尾市岩屋町)に生まれました。晩年、七尾の知人の中に宛てた手紙の中で高田は、七尾湾の夕空に浮かぶ雲が大変美しかったと回想しているそうです。高田が2歳の時、父親が弁護士開業の為福井市に移り住みます。福井市順化尋常小学校、旧制福井中学校卒業後、18歳で上京するまでの青春時代を福井で過ごしました。中学校1年とき、東京美術学校に在学中の彫刻家・雨田光平氏の作品によって、初めて彫刻に触れ、文学、哲学、美術書に熱中していました。まもなく長年の友人(画家)に彫刻家で詩人の高村光太郎を紹介され、その交流などを通して独学で彫刻を勉強したようです。またその頃、当時白樺派に送られたロダンの彫刻(ロダン夫人)に強く打たれました。
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