長野県諏訪郡出身の彫刻家で武蔵野美術大学の教授も務めました。人物をモチーフにした作品を手掛け、躍動感溢れる動きを見事に表現した作品はとても魅力的です。清水多嘉示の作品は、学校や公園などの公共施設に多数展示されている為各地で見る事ができます。
健康上の理由により旧制諏訪中学を中退した後は画家を目指しており、洋画家である岡田三郎助・藤島武二が設立した「本郷洋画研究所」で絵画を学びました。同時期洋画家として下落合にアトリエを構えていた中村彜に師事し技術を磨きました。絵画を学ぶ為1923年からパリに渡りますが、そこでオーギュスト・ロダンの弟子アントワーヌ・ブールデルの作品に出合い、その事をきっかけに彫刻家の道を志します。ブールデルに師事してからは、フランスの美術展覧会に作品を出品し続け1927年まで連続で入選しました。帰国後はブロンズ作品を院展や春陽会などに出品し高い評価を得ました。1980年に文化功労者となり、同年には清水多嘉示の作品を集めた八ヶ岳美術館をオープンしました。翌年には正四位勲二等瑞宝章を授与されました。
先崎栄伸(せんざき えいしん)は、昭和初期にその頭角を現した仏像彫刻家です。わずか18歳にして帝展入選という快挙を成し遂げるほどの腕前は、当時の人々にも驚かれました。その後も文展や日展、正統木彫家協会展などで数々の受賞歴を持ち、作品が納められた寺も少なくありません。
第二次大戦後は仏教美術彫刻に作品を絞り、1954年には仏教美術協会の設立にも携わりました。1976年、その功績が認められ、文部大臣賞を受賞しています。1985年には彫玄会代表として第一回彫玄会展を行いますが、翌年亡くなりました。
細部まで緻密に彫り込まれた造形と、今にも動きそうな躍動感溢れる肉体の表現は見事というほかなく、「想像を絶する才能の持ち主」という評がまさに当てはまる人物です。
寺社に納められているものも多く、曹洞宗の大本山総持寺の舎利殿本尊や、浅草・浅草寺の五重塔内にある百観音の一部も手掛けるなど、数々の作品が各地の寺院に存在します。
ヒロ・ヤマガタ(本名・山形博導)は、現在アメリカを拠点に活躍している、現代美術家です。日本国内で人気の高いシルクスクリーン作品の他に、空間全体が作品となる「インスタレーション」と呼ばれる形の作品も制作しています。
1948年に滋賀県米原の材木商の家庭に生まれ、高校生時代には多くの公募展で作品が入賞するなど、その才能は早くから現れていたようです。卒業後の1967年に上京し、間もなく広告会社へ入社しました。しかし、1972年突如として渡欧し、そのままパリに移住します。翌年、パリの画廊と契約を結んだことがきっかけとなり、欧州各地で個展を開催するようになりました。
転機となった1978年、アメリカ・ロサンゼルスの画廊と契約し、移住します。ヤマガタの代名詞ともいえるシルクスクリーン作品の制作は、このとき始められました。この作品がアメリカで非常に高く評価され、その名は瞬く間に有名になりました。その後はアメリカ各地や祖国・日本、ヨーロッパなど、世界各地で個展を開いています。また、オリンピックやホワイトハウスといった著名な機関からも制作を依頼され、公式ポスターや記念絵画、切手などのデザインも行っています。慈善事業家としての活動も行っており、自身の作品の売上を赤十字や障がい者支援団体へ寄付するなどの社会貢献にも積極的です。
人気の高いシルクスクリーン作品は、版画ながら100色以上の色で彩られ、とても鮮やかで、遊び心にも溢れた明るい作品となっています。なかでも爽やかながら深みのある青色は「ヤマガタ・ブルー」と呼ばれ、ヤマガタの代名詞といえる色となっています。
谷口康隆(本名・康則)は高知県の珊瑚彫刻作家です。最高級の天然珊瑚から生み出されるその作品は、非常に細かな造形と、筋肉の動きまで見て取れるような躍動感あふれる作品となっています。一本枝の珊瑚による緻密な立体造形の姿は、まさに圧巻というほかありません。
作品の種類も多岐に渡っており、縁起物の飾りや置時計、菩薩像や香合と様々な作品が存在します。ときには鼈甲と組み合わせた作品を制作することもあり、その表現は多彩です。
優れた彫刻技術はコンテストでも高く評価されており、高知県珊瑚名作展高知県知事賞や国際珊瑚展入賞といった成績を残しています。2009年には高知県の伝統技能継承者、「土佐の匠」にも認定されるなど、今後の活躍も期待されます。
岡本太郎は太陽の塔の制作者として知られる、日本を代表する芸術家です。
彼が描き作り出す抽象の世界は、日本のみならず全世界の芸術に大きな影響を与えました。
神奈川県の高津村(現川崎市高津区)に生まれ、幼少期より絵を描く事が好きな子どもとして育ちます。東京美術学校在学中の1929年に父親の仕事でパリへ移住、一時期は芸術の意味に迷いますが、偶然目にしたピカソの作品に大きな衝撃をうけます。以後、岡本はピカソを超えることを目標に、抽象作品の制作に没頭することとなります。
第二次大戦の勃発で日本に戻った岡本は、軍の招集命令により陸軍兵士として中国へ派遣されました。終戦から半年後に帰国し、制作活動を再開します。1951年、東京国立博物館で展示されていた縄文火焔土器をみて、その芸術性に影響をうけます。1960年代にはメキシコに滞在し、ホテルの壁画制作の依頼を受けます。これが代表作『明日の神話』の制作へつながります。同時期に大阪万博のテーマ展示を依頼され、シンボルとなった『太陽の塔』を設計しました。その後も意欲的に活動を続け、頻繁に作品展も開催し多くの作品を残しました。メディアで取り上げられることも多く、そのユニークなキャラクターから人気を集めています。
岡本は1996年に亡くなりますが、その後も彼の作品は注目を集めました。1999年には地元川崎市に岡本太郎美術館が開館し、2003年には行方不明になっていた代表作『明日の神話』が発見されました。現在は修復され渋谷駅連絡通路に展示されています。また2011年には生誕100年を記念した展覧会が東京国立近代美術館で開催されました。
有名な「芸術は爆発だ」との言葉通り、自由で派手な作品を多く残していますが、その作品それぞれには彼が未来へ伝えたい想いが色濃く現れています。
西中千人は和歌山出身のガラス工芸家です。
大学時代は薬学を専門としていましたが、卒業後はクリスタルガラスメーカーに勤務した後、アメリカに留学してカリフォルニア芸術大学で本格的にガラス造形を学んでいます。帰国後は日本唯一の公立グラスアート専門学校・富山市立富山ガラス造形研究所で助手を務めた後、1998年に独立して「ニシナカユキト GLASS STUDIO」を設立しています。
その作品は、従来のガラス工芸とは全く違う特徴を持っています。「呼継」という陶器の修復方法を参考に、様々なガラス片を、あえてその割れ目を強調するような形で接合していきます。その形は、古来より日本に存在する独特の美意識「不完全の美」を、現代へと継承しているものといえ、さらにその豊かな色彩と光を通すガラスという材質によって、新たな美へと進化をとげています。また日本の伝統文化を大切にする作風から、作品に茶道具が多いのも特徴です。陶器にはないガラス特有の色が、伝統的な形と交わるその姿は、現代の日本美術の姿といえるのかもしれません。