慶入は京焼の名跡・樂吉左衛門の十一代であり、歴代吉左衛門の中でも多くの作品を制作し、現代にも数々の作品が残っている作家さんです。
江戸時代末期に生まれ、それから明治にかけての激動の時代を慶入は生きました。徳川家の衰退により茶道が軽んじられていた時代でもあり、千家とのつながりが深かった楽家にも風当たりは強くありました。しかしながら慶入は、世事についての反応を示さず、自分らしい作陶を続けます。そんな慶入の心が見て取れるおおらかな作品が多く残っています。
楽家といえばノンコウと呼ばれている三代・道八が稀代の名工として知られており、ノンコウを敬慕していた慶入もまたノンコウを思わせる作品をしました。またそこに留まらず、三代以降の楽家が作り上げてきた研鑽も糧としながら型に縛られない斬新で自由な作品も制作しました。
楽と言えばやはり茶碗が想起されますが、慶入は茶碗に限らず幅広い作品を残しております。これは時代のお茶離れに合わせ、様々な道具を作ることで生計を立てていたからだともいわれています。
楽の伝統を継ぎながら、個性ある作風を持つ慶入の作品は多くの茶道具ファンから支持を集めております。
加藤唐九郎は、「永仁の壺」事件で贋作を作陶してしまった人物として良くも悪くも有名になってしまった愛知県出身の陶芸家ならびに陶磁史研究家です。
「永仁の壺」事件とは永仁二年の瓶子が鎌倉時代の古瀬戸の傑作として認定を受けます。しかし、銘文の不自然さなどから異論が相次ぎ、認定を受けた翌年に加藤唐九郎の長男が瓶子の製作に携わったことを明かします。そして、加藤唐九郎も自らの贋作であったことを明かします。
また、指定に関与していた文部技官・文化財専門審議会委員であった小山冨士夫は引責辞任、加藤唐九郎は無形文化財(人間国宝)の資格を取り消されるという美術史学界、古美術界、文化財保護行政を巻き込むスキャンダルとなった事件です。
このような事件で有名になってしまった加藤唐九郎ですが、日本の伝統的な造形に学び、桃山時代の陶芸の研究と再現に努めた作品は現代では高い評価を受けております。
また、作品の号も年代によって変わっておりますので参考にご紹介いたします。1961年には漢学者で詩人の服部担風翁より「一無斎」の号を送られ以後、作品の銘に「一ム才」を使用する。1962年には「一ム才」を「一ム」と改めるまた、1980年には作品に記す号に「野陶」「ヤト」を使い、。1981年の作品に記す号に「陶玄」を使い、後に「玄」を使用しております。
鯉江良二は愛知県常滑市の陶芸作家です。アルバイト中の事故で、右手の指を2本失うというハンデを抱えながらも、精力的に制作に取り組み続け、その独創的な発想で、従来の焼き物の枠組みを超えた自由な作風が特徴となっています。
青年時代の鯉江は、県立常滑高校窯業科を卒業し、タイル工場で勤務していました。しかし、24歳の頃工場を辞め、常滑市立陶芸研究所へ入ります。ここで5年間本格的に陶芸について学び、退所後独立して陶芸家としての道を歩み始めました。伝統に捉われず、ときには前衛的でもある鯉江の評価は高まっていき、1970年の大阪万博では大型陶製ベンチの企画・制作を行っています。その作品は海外でも評価され、1972年の第3回バロリス国際陶芸ビエンナーレ展では国際名誉大賞を受賞したほか、国外での展覧会・講演なども行っています。2008年には日本陶磁協会賞金賞を受賞しました。
制作スタイルはまさに自由奔放で、日常使いの型の決まった陶器をあえて崩してみたり、代表作『土に還る』では自身の顔を石膏型でとり、シェルベン(衛生陶器のリサイクル用粉末)で焼き固めるなど、従来の陶芸にこだわらない独自の作品を生み出しています。
代表作としては他に『マスク』『チェルノブイリシリーズ』などがあります。