加藤春鼎(かとうしゅんてい)は、三代に渡って続く瀬戸焼の家元です。
歌舞伎などと同じく、いわゆる襲名制の窯であり、歴代の当主が代々「加藤春鼎」を名乗る事となっています。
瀬戸焼で有名な愛知県瀬戸市に工房を構え、制作を行ってきました。代々特徴は変わっていきますが、極まった瀬戸固有の陶技は三代を貫いて受け継がれております。
当代である三代目は「引出し黒」という技法を得意としており、特に20代はその研究に没頭していました。引出し黒は、鉄釉をかけた作品を焼いている途中に窯から引き出し、急速に冷やすことによってより深い黒色を作成する技法です。出来上がる作品は深い黒色に輝く仕上がりになり、お茶をいれると緑色がより映えるようになります。
三代に渡って愛される加藤春鼎は日本のみならず海外でも人気の高い作品がございます。特に三代目はフランスやイギリスでも個展を開いたり、フランス西部の町で行われるシンポジウムにも招かれたりしています。
大樋年朗(本名:奈良年郎)は、代々大樋焼を継承する本家「大樋長左衛門」の十代目となる人物です。
大樋焼は金沢にある、楽焼を源流とした陶芸窯、およびその流派です。
年朗は1927年に九代大樋長左衛門の長男として生まれ、早くから陶芸家としての道を進み始めました。
東京芸術学校(現・東京藝術大学)の工芸科を卒業すると、翌年には日展で初入選。その後も日展を中心に幾度も受賞するなど、活躍されました。1967年には、史上最年少となる39歳で日展の審査員も務めました。
1987年に十代大樋長左衛門を襲名し、2016年に長男に名跡を譲るまで長左衛門として活動しました。
「年朗」という名前は、大樋長左衛門の型にとらわれず作品を発表する際に使用される名です。飴色の釉薬を使うことで出る艶のある独特な輝きが大樋焼の魅力であります。その伝統性を取り入れながらもオリジナリティのある造形を持った作品や、はたまた全く異なる技法を用いた制作など、その作品からはいわば陶芸の世界への深い愛が感じられます。
二代 徳田八十吉(魁星)は九谷焼の作家であり、代々続く九谷焼の名跡「徳田八十吉」の二代目です。
1907の石川県の能美市で、醬油商の五男として生まれます。その後、十代半ばごろで初代・徳田八十吉の養子となり、初代に師事する中で九谷焼の陶芸技法を学びます。その後も家業の傍ら浅野廉、安達正太郎、玉井敬泉、富本憲吉といった凄腕の作家たちに学ぶことで、自身の技量を高めていきました。
1954年に日展にて特選・北斗賞を受賞します。その二年後に、初代八十吉の死去に伴い二代・徳田八十吉を襲名します。
その後もブリュッセル万国博覧会でグランプリを受賞するなど、国内外で八十吉の名を押し上げる活躍をされました。1988年には家督を長男に譲り、自身は「百吉」と号を変えて活動されました。
古九谷の際現に身命を賭した初代の技法を継承しつつも、九谷焼の近代化を推進した作家として二代は知られております。作品を鑑賞する機会がございましたら、ぜひ初代との違いに注目してみてください。
四代徳田八十吉は、代々続く九谷焼の名跡「徳田八十吉」の当代です。
人間国宝・三代八十吉の長女として1961年に生まれ、現在も活躍されている作家さんです。
幼いころより父の背中を見て育ちましたが、当初は陶芸家になるとは考えていなかったそうです。青山女子短期大学を卒業後はNHK金沢放送局に就職し、ニュースキャスターをしました。
転機が訪れたのは二十代半ばの頃。アメリカの美術館に飾られていた中国の景徳鎮の壷を見た時に、自身のルーツを顧みたといいます。
その後は陶芸家としての道を歩み始め、陶壁制作などで頭角を表していきます。徳田八十吉の製陶技術、三代の耀彩技術を継承し、三代没後の2010年には四代徳田八十吉に襲名しました。
作品の特徴はやはり、三代から受け継ぐ耀彩技術を用いた磁器でしょう。いくつかの配色がグラデーションとなって立ち現われ、絵付を必要とせずに鮮やかな作品が出来上がります。四代の配色はどこか柔らかさやつつましさを感じさせるようで、三代とはまた違う気品が見て取れるでしょう。
まずは作者の村田元氏についてご紹介します。
村田元氏は栃木県生まれの益子焼を主に制作していた陶芸家の方です。氏の経歴は面白く陶芸家として作品を作る前に画家として活動をしていました。日本画の師匠のもとで修行するも村田氏自身は洋画を描きたく、そのギャップに葛藤しつつも師匠の作業の手伝いを行いながら自身の絵を模索していくのです。
その後東京へ移り住んだ頃に洋画家として活動を始めます。洋画家として絵を描くだけでなく雑誌の編集や挿絵を描く仕事を行い生計を立てていました。
そんな氏に転機が訪れたのが展覧会にて人間国宝の濱田庄司の作品を見た時です。作品を見た時に自分も焼き物がやりたいという気持ちを抑えられなくなり、すぐに栃木県益子市にある濱田庄司氏の陶房に向かい弟子入りを志願しました。その気持ちに濱田庄司も心を動かされ、弟子入りすることが許され陶芸を学んでいきます。そして濱田庄司から「良いものより面白いものを作るようにやったらいい」という教えをもとに作品を作り続けていました。
北出不二雄は、1919年兵庫県に生まれました。
叔父であり、九谷焼の陶芸家である北出塔次郎の養子となり、陶芸の技術を磨きました。北出塔次郎は九谷焼の伝統を守りつつ現代化に貢献した作家として知られています。
1950年、金沢美術工芸専門学校 陶磁科を卒業し、同年に開催された第6回日展で初入選を果たします。
その後も1955年の第11回石川県現代美術展で最高賞、1964年の第2回朝日陶芸展で優秀賞など受賞を重ね、世間から注目を集めました。
九谷焼らしい鮮やかかつ伝統的な色絵に、モダンなパターンや構図を取り入れた作風が特徴的です。
また、素地が完全に乾く前に文様を細く筋彫りし、素焼きの後に釉薬をかける技法による作品も多く製作しています。
北出塔次郎が開き不二雄が跡を継いだ青泉窯は、不二雄の没後休止状態となってしまいましたが、復活に向けてのプロジェクトが進行中で、九谷焼の新しい発信地とするべく活動が続けられています。