濱田昇児は、大阪府出身の日本画家です。
日本画壇の重鎮である濱田観のもとに生まれた昇児は、父に日本画の基礎を教わります。その後、近現代日本画の巨匠・小野竹喬に師事し、絵画の研鑽に励みました。
1945年、京都市立美術専門学校日本画科に入学します。それと同時に、独立美術研究所にも通い、洋画家の須田国太郎にデッサンを教わります。油絵についても技量を高めていた昇児は、1950年に油絵で独立展に初入選を果たします。その後も入選を重ねますが、二年後からは日本画、それも風景画に絞って活動をするようになりました。
風景画を志したのは師・小野竹喬の影響によるところも大きいですが、その作風は昇児ならではのものと言えます。湖畔や山麗の風景を写実的に切り取り、大自然の幽玄さから清廉を投げかけてくるような、魅力的な空気感を持った絵画が特徴です。
今でも高い評価を受けており二次流通量も比較的少ない作家となります。
日本画を好む方であればその魅力に引き込まれるでしょう。
クロード・ワイズバッシュはフランスの洋画家です。
1927年。ワイズバッシュは、フランスのティオンビルに生まれました。その後、ナンシー美術学校に学び、版画技術を習得します。1957年には、絵画や版画などを展示した自身初の個展を開催します。この個展を契機に、国際的な評価を受けることとなります。
その後もヨーロッパをはじめとした各地の版画展や絵画展に出品するなど精力的に活動し、高い評価を得るとともに、サント・エチェンヌ国立美術大学で教鞭をとるなど、知識人としても活躍していました。
ワイズバッシュといえば、音楽をモチーフとした作品が印象的です。
ヴァイオリニストやチェリストなどの音楽家が、セピア色を基調としながら鋭い線で動的に表現されているのが特徴です。ヴェートーベンやモーツァルトを愛した彼の感性と情熱が魅力となり、作品に表れているようです。
ワイズバッシュの作品は、パリ市立近代美術館をはじめとした世界各地の美術館に所蔵されています。
高畠達四郎は、大正から昭和期にかけて活躍した油彩画家です。
1895年、達四郎は、東京で生まれました。
1914年に慶応義塾大学理財科(現・経済学部)に入学しますが、画家志望が強まり、二年後に中退。本郷洋画研究所に入社し、本格的に画家の道を進み始めます。
帝展に出品し、入選を掴んだ後の1921年、活動をフランスに移します。7年間の滞仏生活の中でエコール・ド・パリの影響を受けると、帰国した後、国画会にフランスで創作した作品などを含む多くの作品を発表しました。
ですが1930年になると、児島善三郎、林武、中山巍らとともに独立美術協会を創立し、以後、独立展を中心に作品を発表するようになりました。
達四郎の作品は、風景をモチーフとしたものが多いです。暗褐色を基調とし、素朴ながらも詩情豊かに、国内外の風景を描き続けました。静物画的なあるがままの風景の描画が人々の心を掴み、風景画の巨匠として画壇に名を残しています。
池田修三は、秋田県出身の木版画家です。
1922年に秋田県のにかほ市に生まれ、旧東京師範学校学校(現・筑波大学)を卒業後、秋田県の高校の美術教諭となります。その後たまたま秋田を訪れていた画家の近藤良悦夫妻に作品が評価され画家を志すことを決意。教員を辞職し33歳で上京し版画家として活動していきます。
日本版画協会展や現代版画コンクール展などで入賞をし少しずつ評価されていきます。40歳を迎える頃にはモノクロ版画ではなく多色刷りに移行し、子供をテーマにした儚げでかわいらしい作品を作り、池田修三らしい作品として確立させました。
しかし池田修三が作り上げるセンチメンタリズムな作風は評価されず、多くの作家に酷評される結果でした。そんな評価を受けた池田修三ですが、特に気にすることなく「竹久夢二を評価したのも後世だった」と語っていました。
以降も池田修三は作風やテーマを変えることなく一貫して子供をモチーフにした作品を作り続けました。
その後は地方のカレンダーや広報誌や販促品などに版画が利用されるようになり、知名度を少しづつ上げていき全国の主要都市で個展を開くまでになりますが、2004年に82歳で亡くなってしまいました。
晩年に地元の秋田や地方において知名度は高まってはいましたが、生前に正当な評価を受けていたとは言い難く、隠れた天才として亡くなってしましました。
池田修三の死後、秋田で2012年から作り始めた季刊誌「のんびり」に、池田修三の特集を組まれたことをきっかけに、再評価され作品集の出版などが行われるようになりました。池田修三自身が言っていたように、竹久夢二のように自身の死後に高い評価がされるようになりました。
レイモン・ジャン・ペイネ(Raymond Jean Peynet)
1908年 – 1999年
フランス・パリに生まれる。両親は「カフェ・ドゥ・ラ・グリル」という名のカフェを営んでいた。そこで育ったペイネは、パリの産業装飾美術学校に入学し、絵の基礎や技術を習得。卒業後は広告代理店に入社します。イラストレーター兼デザイナーとして働き、1939年の独立します。独立してすぐにフランスの英字新聞に挿絵が掲載されたことで名が知られるようになります。1942年には雑誌にペイネの代表作と言える「恋人達シリーズ」の連載が始まる。
その後は、ブリュッセル万国博で都市計画館の装飾を手掛けるなど認知度を高め、1987年に芸術・文芸勲章を受章しました。
レイモン・ペイネの作品は愛をテーマにした作品が多く、代表作となった恋人達シリーズが有名です。恋人達シリーズのモチーフは実は自身のことで、ペイネ自身と奥様がモデルとなっています。作風はメルヘン風で、色鮮やかで柔らかな雰囲気を描いています。日本でも人気が高く、愛をテーマにした作品は幸せな雰囲気に合うということで結婚式場などで飾られていたり、絵本のようなタッチで描かれており、子連れが集まる場である児童館などに飾られています。
このようにペイネの日本での人気が高いことから、1986年から日本の軽井沢にペイネの美術館が開かれており、直筆、リトグラフ、挿絵など多くのペイネ作品が展示されています。ちなみに南フランスにあるペイネ美術館の利用者の9割は日本人だと言われています。
尾身周三は、1943年新潟県に生まれ、1960年新宿造形美術卒業後現在まで日本の古民家を中心に描いている油彩画家です。
民家を写実的に20年以上描き続けてその数は数万点にも及び「民家の尾身」と言われています。民家を描き続ける理由として古き良き日本の懐かしい風景へのあこがれがあったそうです。
またこの様な田舎の風景は、土地開発なので無くなってしまう風景です。しかしそれを「仕方ないこと」と割り切りながらも絵画として残されています。
活動としてはNHKなどのテレビで特集され、無所属でありながら5回の受章歴があり、現在も民家を描きながら、都電荒川線沿線の風景など別の風景にも力を入れて精力的に活動されていらっしゃいます。