加賀蒔絵を代表する作家の一人が「清瀬一光」さんです。
加賀蒔絵とはその名の通り江戸時代に加賀藩で作られた蒔絵技法の事を言います。
加賀藩の三代目藩主であった前田利常は文武の一環の一つとして京都から「五十嵐道甫」江戸から「清水九兵衛」が招かれ現在の加賀蒔絵の礎が作られました。
「清瀬一光」は当代で二代目となり初代の長男の方が二代目「清瀬一光」を襲名されています。
二代目「清瀬一光」さんは「加賀蒔絵」の伝統を守りながらも様々な新しいことに挑戦されています。
今まで一般的に蒔絵というと木製の漆器に施されることが多かったですが、二代目清瀬一光さんは他の素材にも蒔絵を施すことに挑戦しました。
ガラスやべっ甲、象牙などです。
この挑戦が「加賀蒔絵」の技術を向上させ、更に見事な作品を作り上げる事へつながりました。
今までに無い新たな試みに挑戦したことにより「加賀蒔絵」の可能性がまた一つ広がりました。
平成7年に二代目「清瀬一光」さんは通産大臣認定伝統工芸士となり現在は「金沢漆器」「加賀蒔絵」の魅力、文化を広く世界へ広めると共に次の世代へ向けて後進の育成に尽力されているとの事です。
川喜田半泥子(本名・久太夫政令)は三重の実業家ですが、趣味であった陶芸作品が高く評価され、今なお高い人気を誇る人物です。
半泥子は1878年、伊勢の豪商の16代目として生まれました。生後間もなく祖父・父が相次いで亡くなり、祖母によって育てられています。川喜田家当主として教育を受け、1900年には東京専門学校(現早稲田大学)へ進学しています。1903年、三重県津市の百五銀行取締役に就任。さらに19年には頭取となります。45年まで頭取を務め、三重有数の金融機関にまで成長させています。その他にも市議や県議、県内の会社の要職を務めるなど財界の重鎮として活躍しています。
陶芸は趣味として行っていましたが、自宅に窯を築くなど本格的であった他、後の人間国宝となる陶芸家・荒川豊蔵や金重陶陽、三輪休雪などを支援すると共に、彼らから多くの技を学んでいます。その腕前は専門の陶芸家と比べても全く遜色のないものですが、本人はあくまで趣味としており、作り上げた作品もほとんど販売することなく、知人などに配っていたようです。
晩年は床に臥すこととなりますが、そこでも書や画を制作するなど、その制作意欲は衰えませんでした。
陶芸作品は多くが抹茶碗で、形にとらわれない自由な仕上がりの作品は現在も多くの茶人から愛されており、時には江戸時代の著名な陶芸家・本阿弥光悦になぞらえて、「昭和の光悦」とも称されます。
1980年、川喜田の旧蔵資料、そして半泥子の作品を収蔵する「石水博物館」が開館しています。
茶の湯釜の人間国宝にも認定された高橋敬典。その生涯を茶釜制作にささげた作品は、伝統技法と現代的な造形が組み合わされた気品ある仕上がりとなっています。
敬典(本名・高治)は、1920年に山形の鋳物製作所に生まれました。1938年に家業を継ぎ、以来茶釜制作にのめり込みます。1950年には、愛知の釜師で後に人間国宝にも認定された長野垤志に師事します。翌年の日展で初入選を成したことがきっかけとなり、以後数多くの展覧会で賞を受賞するようになりました。また昭和天皇や、皇太子殿下(現在の上皇陛下)への献上品も制作しています。
長年の功績と技能が評価され、1992年には勲四等瑞宝章を受章、さらに96年には山形県初の重要無形文化財保持者に認定されました。
全てが手作業で作られるその作品は、鉄でありながらどこか温もりを感じさせる柔らかな印象をうけます。また、きめ細かな地肌や美しい地紋など、細部に至るまでのこだわりが、釜一つ一つに個性を与えています。
萩井好斎は現在三代目まで続く大阪の指物師です。
初代好斎は指物師・二代芦田真阿(指真)に師事し学びました。独立後は茶の湯専門の指物師として「木遊軒」の名で制作を行っています。1957年、淡々斎より好斎の号を得て、以後裏千家の職方となります。愈好斎の好み物を多く作っています。現在の好斎は三代目で2001年に襲名しています。
制作している作品は多種多様で、炉縁や風呂先といった大きなものから、香合や蓋置といった小さなものまで手掛けています。伝統的な指物技術を駆使しつつも現代的な要素を多分に含み、まさに現代指物の有力者としてふさわしい作品となっています。
また二代好斎の兄弟も同じく指物師や金工師として制作を行っています。
長岡空郷(ながおか くうきょう)は、楽山焼の伝統に則り、茶陶を中心に制作し、伊羅保や刷毛目、出雲色絵など幅広く手掛けています。
伊羅保とは、砂まじりの肌の手触りがいらいら(ざらざら)しているところに由来するとされています。
刷毛目とは、化粧土を刷毛で塗る技法のことで、 主に白い化粧土が使われます。ぐるりと白化粧を塗りまわす手法が一般的で、 もともとは鉄分の多い黒土を、白く装飾する目的がはじまりのようです。
「秦蔵六」は日本を代表する鋳金家の名です。
当代で六代目となります。
「秦蔵六」の名は江戸の末期から代々、伝統の鋳金技法と共に継承されてきました。
初代蔵六は文政6年(1823年)に当時の山城国(京都府)に生まれ。
「二代 龍文堂 安之助」の弟子となり鋳造技術を学びました。
23歳の時に師事を辞して中国の古陶器に魅了され中国の古陶器撥蠟法を研究します。
「秦蔵六」の最大の特徴がその中国の古陶器の意匠を活かした撥蠟鋳造法による青銅器です。ところどころに金箔を貼る等した作品も数多く見られます。
また、「秦蔵六」は大和地方を巡歴し古代の作品を鑑賞。和漢の古作品の研究も意欲的に行いました。
その後、江戸幕府15代将軍徳川慶喜の征夷大将軍黄金印ならびに孝明天皇の銅印を鋳造して名声をあげると、1873年には宮内省の命により明治天皇の御璽や国璽を鋳造したことで更に名声を高めました。
京都の名工として、青銅器や鉄瓶、錫、銀を使った工芸品をたくさん残しており、代表作に鼎形花瓶があります。