「河井寛次郎」という名をみなさん聞いた事はありますか?
大正・昭和にかけて京都を拠点に活動した日本を代表する陶芸家の一人が「河井寛次郎」さんです。
河井寛次郎氏は島根県に生まれ中学生のころから陶芸家を目指していました。
その夢を叶える為に東京高等工業高校(現東京工業大学)窯業科に進学し、その後、京都市立陶器試験場に入所しました。
後に共に民藝運動を行う「濱田庄司」氏とは東京高等工業高校では寛次郎氏が2学上の先輩として出会い、その後の京都市立陶器試験場では同僚として、共に釉薬の研究に切磋琢磨してお互いを磨き上げていきました。
京都市五条坂に工房「鐘渓窯」を住居とともに構えた河井寛次郎は東洋古陶磁の技法を使った作品を初めての個展で発表し大変好評を博しますが、次第に自らの作陶に「このままで良いのか?」と疑問を抱き始めます。
追い打ちをかけるように疑問を抱き始めたと同じタイミングで柳宗悦から酷評を受けさらにその考えに拍車がかかりました。
その後、その疑問は濱田がイギリスから持ち帰ったストリップウェアという陶器を見た事で解消への一歩を踏み出します。
それが日用の器に自分の進む道を見出した事です。
それより、河井寛次郎の作品は一変し、暮らしに溶け込む「用の美」といった作品を多数生み出していきました。
第二次世界大戦で一時作陶を中断しますが大戦後に作陶を再開した時には、大戦の経験を糧に生命感にあふれた力強い作品や、不思議な造形を手掛ける等の新たな美の作風の作品を作り出していきました。
河井寛次郎氏のその芸術性は国内のみならず海外でも高く評価され、人間国宝や文化勲章の授与等もありましたが辞退し、一陶工として焼き物に生涯向き合い続ける事を選択しました。
現在、東山五条に河井寛次郎記念館が建てられています。
小山冨士夫は、日本における中国陶磁器研究の大家として名高い人物ですが、その一方で自ら作陶も行っていました。
1923年、陸軍に志願した際、同期にいた陶器好きの影響を受けたのが、この世界に入るきっかけとなり、1930年には東洋陶磁研究所に入所しました。太平洋戦争の始まる1941年、中国の古窯発見などの成果をあげ、戦後は文化財保護委員会の調査官としても活躍します。しかし1961年、永仁の壺事件で責任をとり辞職することとなりました。その後は研究者として多くの著作を発表しつつ、世界の遺跡調査や講演を行っています。
作陶を始めたのは1973年からで、岐阜県土岐市に窯を建てました。残念ながら1975年に亡くなっている為、残された作品はそれほど多くありませんが、長年の陶磁器研究により積み重ねてきた知識をもとに作られる作品は、どれも完成度が高く、名品として人気となっています。
藤本能道は、本焼きの前に色釉により絵付けをする「釉描加彩」という技法を確立し、色絵磁器の人間国宝に認定された人物です。
1919年に現在の東京・新宿に生まれ、中学卒業後は東京美術学校工芸図案部に進みます。卒業後は文部省技術講習所に入り、陶芸家・加藤土師萌の指導を受けました。講習所を卒業した後は、そのまま臨時職員として勤務する事になり、富本憲吉の助手を務める事となります。のちの代表作となる色絵磁器の技法はこの頃学んだようです。退職後は輸出陶器のデザインや窯業指導の職としますが、その一方で色絵研究も続けていました。この研究が実を結び、1968年の第31回光風会展に出品した「磁器色絵花瓶」が光風工芸賞を受賞します。
1970年、母校となる東京藝術大学の助教授に就任し、後進の育成にも尽力します。1985年には学長となり、5年間務めました。
多くの作品展に入賞した釉描加彩の技術が評価され、1986年、重要無形文化財「色絵磁器」保持者に認定されました。
輪郭線を描かない日本画特有の没骨描法を取り入れた絵画的な陶器と、細部まで精密に描き躍動感あふれる鳥の絵が特徴の磁器は、現在も高い人気を誇っています。
角谷一圭は、大阪市出身の釜師です。茶の湯釜の最高峰といわれる筑前芦屋釜の復元に成功し、その技術の高さから人間国宝に認定されました。
1904年に生まれ、小学校に入学した頃から釜師であった父の仕事を手伝っていました。年月が経つにつれ自らも鋳物に興味を示すようになり、父から製作技術を学んでいきます。
21歳の頃、大阪工芸展に鉄瓶を初出品し、受賞した事で本格的に釜師の道を歩み始めます。その後は大国藤兵衛や香取秀真の指導を受け、鋳金全般の技術を学びました。以降多数の作品を制作し、日展や日本伝統工芸展などへの出品を行い多くの受賞を重ねました。日本工芸展に出品した「海老釜」が高松宮総裁賞を受賞した事が話題となり、それからの日本工芸展では角谷一圭の名前が常連となります。その随一の技量は、1978年に「茶の湯釜」で重要無形文化財にされたことで証明されております。
造形・地紋に溢れる気品は一圭ならではであり、現在は大阪市の工房でその技術が息継がれております。
平田重光は明治から大正期にかけて活躍した金工師です。
その高い技量から、皇室への献上品も数多く制作しており、献上品の中でも自分の名と工房名を刻むことを許された数少ない人物です。
皇室御用金工師の名にふさわしく、その作品は優美かつ緻密な造形で、たいへん美しい仕上がりとなっています。明治日本を代表する鋳金技術の持ち主だったことは疑いようもありません。
用いた技法も様々で、浮彫から糸目模様、全てを均等に打つのは非常に高度な技術を要する霰打ちなど、これらを駆使して作られる手間のかかった作品は、明治金工の最高傑作と呼べるものではないでしょうか。
作品の種類もバラエティに富んでおり、花入から茶托、香炉に茶壺、急須や盛器、そして定番の銀瓶と、高い技術力を惜しみなく使っています。
奈良の山中で作陶に励む孤高の陶芸家、辻村史朗。我流で作り上げた豪快な造形は、シンプルながら力強さを秘めた作品となっています。
辻村は1947年、奈良県の畜産農家の家庭に生まれます。青年時代に見た大井戸茶碗が彼を陶芸の魅力に引き込み、高校卒業後禅寺で修行した後は、家業を手伝いつつ修練を重ねていました。奈良市水間の山奥に土地を手に入れると、自宅から工房まで全てを自分で建て、以後この場所で作陶に打ち込む事となります。1977年、初めて開催した個展が評判となり、翌年には大阪三越で個展が開催出来るほど有名になりました。90年代にはその名声は海外まで広がり、ドイツやイギリス、アメリカでも個展を開催しています。
誰にも教えを請わず、また弟子をとることもなかった辻村ですが、元総理大臣で現在は陶芸家として活動している細川護煕だけには、その技術を教えています。
また、あまり知られていませんが、陶芸以外に油絵も制作も行っています。