梶喜一は京都府出身の日本画家で、鯉をよく描いた作家として知られています。
1904年に生まれ、16歳の時に都路華香に師事する一方で関西美術洋画研究所にも通って日本画を学びました。1924年に京都絵画専門学校に入学し、1927年に卒業して京都絵画専門学校の研究科にも所属しており、1935年に修了をしました。1936年に師であった都路華香の死後は西村五雲の日本画塾である晨鳥社の会員となり本格的に画家としての道を歩んでいきます。しかし、支那事変が勃発したことにより中国北部で軍隊として戦いました。
1939年に帰還した後は、前年に亡くなった西村五雲に代わり山口華楊が引き継いだ晨鳥社に復帰します。
それ以後は文展や帝展に出品をし、数々の賞を受賞するほどの画家となりました。
梶喜一の作品で有名なのはなんといっても「鯉」を題材にした作品でしょう。
作品を描くときにはその時々の雰囲気に合わせて製作しているので同じものはありません。鯉ごとに非常に鮮やかに描かれる作品は今もなお人々を魅了しているに違いないでしょう。
1824年~1893年 藤井 松林(ふじい しょうりん)は、福山城下の長者町の武家屋敷で誕生しました。松林は、14歳の時に、御絵図師加勢になり絵画での腕を発揮する初めと言われております。この頃から、四条派の重役だった高田杏塢と吉田東里に絵の手ほどきを受けており、本格的に絵画の修行を始めたのは1849年24歳からになります。1856年に京都へ行き、円山派の中島来章の門をたたき、その同門には森寛斎、幸野楳嶺、川端玉章等後に名を残した画友がおりました。1889年宮内庁に作品を献上おり、写実派の妙技を遺憾なく発揮し、松林を代表する作品となっております。「游鯉図」、「百福図」になります。松林の描いた画題は花鳥、山水、人物等全般にわたり、和歌も嗜む文人画家でした。
田能村竹田は、豊後国岡藩(大分県竹田市)出身の南画家です。
1777年に生まれ、実家は岡藩主のお抱えの医者の家系でした。しかし生まれつき体の弱かった竹田は、22歳の時に藩主から医者の道に進まなくてもよいと言われ、学問の道に進むこととなりました。
絵を描き始めたのは20歳頃で、地元の画家から学ぶ形で始まりました。竹田が本会句的に芸術一筋となったのは37歳であり、芸術家としては遅い年齢でした。しかしながらその深い教養や力量から豊後南画の始祖と呼ばれるまでになり、また帆足杏雨・後藤碩田・高橋草坪・田能村直入のいわゆる竹田門下四天王と呼ばれる優れた後継者を残しております。
竹田の作品は南画と呼ばれるいわゆる中国の画法でした。南画の基本的な考えは、たくさんの知識を付け、自然を身体で感じ、それを絵に表すというものでした。その中でも竹田は知識への探求が熱心であり、良い絵を描くためにはたくさんの知識と、旅をして得る事ができる見聞や体験が必要であると語り、それを実行に移していたのでした。
竹田は筆まめといえるほど数多くの作品を残しており、その作品は全国の美術館に所蔵されております。京都の出光美術館には竹田の作品が200点近くも所蔵されています。機会があれば、是非一度足を運んでみてください。
橋本関雪は大正から昭和にかけて活躍した文人画家です。
兵庫県神戸市に生まれる。幼少のころから漢学を学び、片岡公曠について四条派の手ほどきを受けます。1913年には竹内栖鳳の竹杖会に入りさらに腕を磨きます。その後京都に移り住み京都画壇において活動しました。
関雪の作品は漢文学の教養に基づき古典文学や風物を題材にした作品は「新南画」や「新古典」と呼ばれています。
動物画にも優れ四条派、狩野派、南画などのあらゆる画風を咀嚼し、精神性を重んじた作品を遺しました。
四条派の写実的な動物の描写を取り入れた新南画、新古典の作品はひときわ高い評価を受け、大正・昭和期の画壇において中心的人物の一人となりました。
久隅 守景(くすみ もりかげ 生没年不詳)は江戸時代前期の狩野派の絵師です。狩野探幽の弟子で、最も優秀な後継者と言われております。しかし守景の人生を記した資料や文献が少なく、謎が多き画家であります。生まれも不詳であり、狩野探幽守信の門に入り、神足常庵守周、桃田柳栄守光、尾形幽元守義と共に四天王と言われるほど実力はありました。1831年の「画乗要略」では「山水・人物を得意とし、その妙は雪舟と伯仲、探幽門下で右に出る者なし」と高い評価を受けています。守景には一男一女がおり、二人とも父を継いで絵師になっている。しかし息子は悪所通いの不行跡などが原因で狩野家から破門され、さらには罪を重ね佐渡へ島流しされています。そして娘も同じ狩野門下の塾生と駆け落ちをするといった不祥事が続きます。これがきっかけになったかはわからないが、狩野派から距離を置き、金沢に向かい充実した制作活動を送った。最晩年まで制作活動は衰えず、老いを感じさせない作品を残しています。亡くなった時期も不詳ではありますが、1698年に庸軒の肖像画を描いたとされ、その後亡くなったと推測されています。
呉春(ごしゅん 1752年~1811年)は江戸時代中期の絵師です。四条派の始祖。初期の画号は松村月渓。呉春は京都の金座年寄役の家に六人兄弟の長男として生まれる。はじめは家業の金座を継ぎ平役を務めていた。金座は高給なため家は裕福であった。このころから非常に手先が器用であったという逸話が残されている。絵を学び始めた時期は不明であるが、1770年頃に大西酔月の門を叩いたとされている。しかし数年たつと酔月が亡くなってしまいます。その後、1773年に与謝蕪村の内弟子として入門し、俳諧や南画を学び始める。生活に困っていなかった呉春は最初は趣味や余技として学び始めたのでしたが、1775年の「平安人物誌」に早くも名前が載ります。この前後から何かしらの事情で金座を辞め、本格的に俳諧や絵師の道に進みます。呉春は師・蕪村が亡くなった際に円山応挙から助言をもらいます。それをきっかけに呉春の作風は円山派風へと変化していきます。応挙がなくなると呉春は京都画壇の中心となり、その画派は呉春が住む場所からとり「四条派」と呼ばれるようになりました。