皆様、こんにちは。 緑和堂 名古屋支店でございます。
今回、ご紹介させて頂くお品物は山中 静逸(信天翁)『龍渓研』になります。
こちらは名古屋市緑区にお住いのお客様よりお譲り頂きましたお品物になります。
山中静逸(やまなか せいいつ)は愛知県碧南市出身の南画家、書家、政治家であり号を静逸または信天翁(しんてんおう)としました。
また、富岡鉄斎(とみおか てっさい)の生涯の友として知られる人物です。
山中静逸は愛知県碧南市に山中子敏(やまなか しびん)の二男として生まれます。父の山中子敏も文人であり画家でした。また、実家は東浦村の大地主で裕福な家庭だったといわれています。
幼少時代から大阪に出て篠崎小竹(しのざき しょうちく)に学んだが、1847年に父である山中子敏が亡くなり、家業を継ぎ寺子屋を開きました。
しかし、京都に出て国事に奔走していた二男である弟の死をきっかけに山中静逸は三男の弟に家業を継ぎ、漢学を学ぶため上京し朱子学者であった斎藤拙堂(さいとう せつどう)に学びます。
三年後には国事に尽くす為、京都に向かい梁川星巌(やながわ せいがん)、梅田雲浜(うめだ うんぴん)、頼三樹三郎(らい みきさぶろう)らと交わり、国事に尽力しました。
この頃に生涯の友となる富岡鉄斎と出会います。
安政の大獄では多くの同志を失い、難を逃れて身を隠し、幕政改革に奔走した。
明治維新後には岩倉具視(いわくら ともみ)とも親交を深め、1868年の鳥羽伏見の戦いでは、朝廷側の食料や軍事費の調達する役目を担い、明治天皇の東京遷都の際には御用掛も勤めました。
明治新政府となり、1869岩手県知事、1870年には宮城県知事と歴任しました。
京都で学者、詩人、画家としても活躍し南画においては日本国内のみならず海外でも高く評価されました。1873年すべての官職から引退、京都の下加茂に住み、文芸の道を楽しみました。
1885年に64歳の生涯を終え、明治政府より正五位を受け、1913年には従四位を受けました。
今回のお品物はそんな歴史的にも活躍された山中静逸の愛用していたとされる硯『龍渓研』になります。収納されていた木箱は残念ながら壊れてしまったようですが、傷等も無く綺麗な状態で保管されており、過去に博覧会や美術館に展示していたとされる資料も一緒に保管されておりましたので、今回の評価額となりました。状態によっては評価額が変動致しますのでご了承くださいませ。